お人形シスターズ - 本文


 1960年代半ばから、シュープリームスというガールズ⋅グループが一世を風靡します。
 64年から69年まで、発売シングルが次々と全米1位を獲得しました、5曲連続、4曲連続と。
 中心ヴォーカルは小鳥のさえづりよりも魅力的な歌声のダイアナ⋅ロス。脱退した後も息長く活躍したので、新世代には単体での印象が強い彼女ですが、初期はシュープリームスでばか売れしていました。
 そのスプリームスは最も成功した代表的なガールズ⋅グループになりましたが、オールディーズでいうガールズ⋅グループの最初ではありません。彼女たちがばか売れを始めるより前にも、人気のガールズ⋅グループは少なからず出ました。
 特に60年代初期は注目ガールズ⋅グループが多く出現したようです。
 1963年の大ヒット曲「Be My Baby」で熱狂を巻き起こしたロネッツというガールズ⋅グループもその一つでした。米英はもとより、日本においても、この曲が売れに売れたかどうかはともかく、「ビーマイベイビー」という英語はよく知られます。
 ザ⋅ロネッツは姉妹と従妹という女の子3人組でした。
 このグループの出発点は早くも1950年代初頭。ニューヨーク、ハーレム地区に隣接するワシントン⋅ハイツの祖母の家で週末ごとに彼女たち幼い孫娘はかわいい喉を身内に聴かせていたといいます。祖母によって「Dolly Sisters (お人形のように可愛い子たち)」と命名されました。

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 やがて、特に姉妹の妹のほうのヴェロニカ⋅ベネットが米国ショービジネスの世界に強い興味を持つようになり、孫娘たちは本格的にハーモニーの特訓を始めます。彼女ヴェロニカはロニーの愛称で呼ばれ、ロネッツというグループ名の由来です。また、後年の彼女はロニー⋅スペクターの名義で単体活動します。
 当初は従姉妹たちをかり集め、それこそ多人数のグループだったようですが、世間を知る年頃になると彼女たちドリー⋅シスターズは姉妹と従妹の3人組でした。
 そしてこの3人組は自力で売れっ子になったというより、その舞台裏で糸を操る音楽プロデューサーの人形だったと見るほうがよくわかるかもしれません。
 かくいうプロデューサーこそ、この黒猫シリーズ連載の主人公である大物フィル⋅スペクターでした。
 彼は1961年に共同でフィレス⋅レコード社を起ち上げ、ザ⋅クリスタルズというガールズ⋅グループを手掛けていました。
 さて祖母たち親類一同の前でかわいい喉を披露していたお人形3人娘も1960年代になると、そろそろまじめに世間を知っていいお年頃でしたが、ちょっと業界人と知り合い、小さな音楽事務所を紹介され、すんなりレコードを出してしまいます。でも、鳴かず飛ばず。
 むしろ彼女たちはその頃、ひょんな事からダンス⋅グループとしてスカウトされ、そっちの活動ですこし名前を知られるようになります。
 ちなみにそれまでは自分たちでRonnie and the Relatives(ロニー⋅アンド⋅ザ⋅レラティヴス / ロニーと親類)と称していましたが、副業ほどの位置付けにすぎないダンサー活動ではその歌手業の名前を使いたくなかったので、あらためてロニーたちの母親からロネッツというグループ名を授かり、その名前で踊ることにしました。
 ブルックリン⋅フォックスの司会者からも声が掛かり、彼のショーで踊るほどでした、舞台の端や奥のほうでショーに花を添える役として。
 それもそれでショービジネスのうち。ロネッツ3人娘は不本意なその踊るなんとかに観るなんとかのアルバイト仕事を積極的に楽しみ、独特の髪形やメイク、ロネッツ⋅スタイルの外見を開発します。それが後には身を助け、数あるガールズ⋅グループのなかで差別化に成功するのでした。
 でも、あくまで舞台中央で歌うことを夢見るガールズ⋅グループ。
 もうロニーの姉は先駆けて大台の二十歳代を迎えていましたが、とうとうヤケになり、ガールズ⋅グループのクリスタルズを手掛けていた気鋭のプロデューサーであるフィル⋅スペクターにやぶれかぶれで唐突に電話してみました。私たちはロネッツです、どうすればプロデュースしてもらえますか──。
 「── The Ronettes?」
 まったく思ってもいなかった返事。いつでもオーディションすると言うのです。
 「えっ! い…、今からでも?」
 「Yes。すぐでもいい、いつでも」
 疑惑のモンスターヒット曲「He's a Rebel」が全米チャートの1位に駆け登ってから数か月後のことでした。
 彼は家系をたどるとロシアのユダヤ系から出ています。父親の代あたりで米国に渡ってきたので、フィル⋅スペクター自身はニューヨーク生れです。
 旧大陸のユダヤ民族といえば、シェークスピア作品にあるヴェニスのユダヤ人高利貸しの喜劇がすぐれた解説書になります。旧大陸の嫌われ人種、頭がいいという長所まで憎まれました。
 魔女狩りなどで迫害され、ジェノサイドが猛威を振るった第二次世界大戦時はとうとう旧大陸から避難するしかありませんでした。それが頭脳流出となった欧州は矮小化し、一方、ユダヤ系を受け入れた米国は文化経済科学軍事あらゆる方面で超大国となるのでした。
 さてオーディションでは彼自身がピアノの前に座って伴奏しました。ロネッツの3人娘は当然のようにロニーを真ん中にして並びます。
 最初の課題曲は「Why Do Fools Fall in Love - (なぜか恋する阿呆ども)」。
 この審査中、フィル⋅スペクターがピアノの席からジャンプした、という証言があります。椅子から飛び上がって、そして彼はわめき立てました。
 「それだっ! それだぁ! その声を僕は探し求めていたんだ!」
 上気し、見るからに興奮した彼の睨み付けるような視線の先には成人男性の獰猛な声に怯えている十九歳のロニー。
 しかし審査を終えるまでには彼の神経も平生に戻り、だいいち最後まで続けなくてもとっくに結果は見えていました。
 彼はかしましく帰りかけていた娘たちの中からロニーを呼び止めます。レコード会社を起ち上げていた事業主なので娘たちの保護者と会う必要があったのです。
 「あっ、今日はありがとうございます、アマチュアの私たちのために」
 「いや、すっかりスターだよ、もうブルックリン⋅フォックスに出ているだろう」
 「あ…、ご存知だったんですか? ……踊ってるの」
 「僕だって──何度も観に行ってるんだ」
 そして二十二歳の彼は普通の青年のようにロニーの瞳を見詰めていました。
 数か月後、彼のレコード会社に移って最初に出した曲、ロネッツ名義でのデビュー曲が「ビーマイベイビー」でした。全米チャートで最高2位、全英4位でしたが、そんな順位以上に英語圏を沸かせました。リリース年のうちに200万枚を売り上げたといいます。
 そのため数限りない点で注目される、取り上げられる点の尽きない曲です。
 導入部のドラム演奏、初めて世に知られるロニーの歌唱、初めて試みられたフィル⋅スペクター独特のサウンド制作、豪勢なバッキング⋅ヴォーカル陣、音楽界の異常なほどの反応。
 フィル⋅スペクターはこの曲に過剰なほどの楽器群とバックヴォーカルを投入し、それらの音源から出来うる限り最良の音響を根気強いスタジオ編集で造り上げます。彼のそうした執念深いレイヤーとオーヴァーダビングの編集手法は「音響の壁(wall of sound)」と呼ばれました。自身の解説では「ワグネリアン(ワーグナー信奉者)によるロックンロールへのアプローチ」だそうです。
 この曲に触発されて、60年代にはビーチ⋅ボーイズが「Don't Worry Baby」という曲を発表し、これは男性側から応答した歌、また70年代になってもビリー⋅ジョエルが「Say Goodbye to Hollywood」という追想曲を制作して熱唱、これは離婚後に活動を再開したロニーもレコードにします。
 「Be My Baby」の翌年、ロネッツは英国へ公演旅行しました。英国で待っていた音楽界の面々には当時飛ぶ鳥を落とすビートルズによって紹介され、彼女たちの公演では前座をローリング⋅ストーンズが務めています。
 また、その英国行きでビートルズ、特にジョン⋅レノンと親しくなったロニーたちは逆に彼らの米国公演でも客演し、ビートルズ全米公演に出演できた唯一のガールズ⋅グループになりました。
 フィル⋅スペクターのもとに移籍し、「Be My Baby」で一夜にして取り巻く状況が一変したロネッツ。ロニーは回想しました、
 「私たち、人生がひっくり返されたような感じでした。私の夢だったほとんど全部がそのまま実現していました」
 ロニーとフィル⋅スペクターの結婚は1968年でした。
 お人形娘の夢をほんとうに叶えてくれる頼もしい男性の大きな愛にも包まれたロニー。
 ロネッツのほうもその前年に解散し、姉妹と従妹3人とも男女のさやに納まりました。
 彼女たちの抜けた穴をシュープリームスが埋める形で売れに売れます。

Nov 13, 2017 - サイト管理人

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