臧文仲関連資料
國語、左傳

 ── 『國語』晉語八より
 【 伝本 】
 魯襄公使叔孫穆子來聘。范宣子問焉曰、人有言曰死而不朽、何謂也。穆子未對。宣子曰、昔匄之祖、自虞以上為陶唐氏、在夏為御龍氏、在商為豕韋氏、在周為唐杜氏、周卑、晉繼之、為范氏、其此之謂也。對曰、以豹所聞、此之謂世祿、非不朽也、魯先大夫臧文仲、其身歿矣、其言立于後世、此之謂死而不朽。
 【 訓み下し文 】
 魯(ろ)の襄公(じやうこう)、叔孫穆子(しゅくそんぼくし)をして来聘(らいへい)せしむ。范宣子(はんせんし)、焉(こ)れに問(と)ひて曰(いは)く、人(ひと)びとに死せるも朽(く)ちずと曰(い)ふ言(こと)有り、何(なん)の謂(い)ひぞや。穆子未(いま)だ対(こた)へず。宣子曰く、昔(むかし)、匃(かい)の祖(そ)、虞(ぐ)より上(かみ)を以(もつ)ては陶唐氏(たうたうし)(た)り、夏(か)に在(あ)りては御龍氏(ぎょりゅうし)為り、商(しやう)に在りては豕韋氏(しゐし)為り、周(しう)に在りては唐杜氏(たうとし)為り、周卑(ひく)まり、晋(しん)(これ)を継(つ)ぐに、范氏と為(な)る、此(こ)れの謂ひぞや。対へて曰く、豹(へう)を以て聞く所(ところ)、此れ世禄(せろく)と謂ふ、不朽(ふきう)に非(あら)ざるなり、魯の先大夫(せんだいふ)臧文仲(ざうぶんちゅう)、其(そ)の身(み)は歿(ぼつ)せしも、其の言(げん)後世(こうせい)に立(た)つ、此れ死せるも不朽と謂ふ。
 ※ 語註 ※
※襄公 襄公は魯の第23代。在位は紀元前572年~前542年。
※叔孫穆子 名は豹。魯の大夫。『春秋左氏伝』では穆叔。
※來聘 礼物を携えて来朝すること。この記事は晋国が主体。
※范宣子 名は匄。范氏は晋の六卿の一。『春秋左氏伝』の襄公24年にもこの逸話がある。匄は匃の字に同じ。
※虞 堯の次、舜の時代。虞は舜の姓。虞舜。
※夏 夏王朝。殷の前代。
※商 殷王朝。周の前代。
※周 西周が衰えて遷都し東周となった。
※晋 東周は春秋期と戦国期。春秋時代の覇国となった晋が衰えた東周王朝を後見した。
※世祿 俸禄を代々にわたり世襲すること。


 ── 『春秋左氏傳』僖公二十二年より

 【 伝本 】
 二十二年、春、伐邾、取須句。反其君焉、禮也。
 三月、鄭伯如楚。
 夏、宋公伐鄭。子魚曰、所謂禍在此矣。
 (中略)
 邾人以須句故出師。
 公卑邾、不設備而禦之。臧文仲曰、國無小、不可易也、無備雖衆、不可恃也、詩曰、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰、又曰、敬之敬之、天惟顯思、命不易哉、先王之明德、猶無不難也、無不懼也、況我小國乎、君其無謂邾小、蜂蠆有毒、而況國乎。弗聽。
 八月、丁未、公及邾師戰于升陘。我師敗績。邾人獲公冑、縣諸魚門。
 楚人伐宋以救鄭。宋公將戰。大司馬固諫曰、天之棄商久矣、君將興之、弗可赦也已。弗聽。
 (後略)

 【 訓み下し文 】
 二十二年、春、邾(ちゅ)を伐(う)ち、須句(しゅく)を取る。其(そ)の君(きみ)を焉(こ)れに反(かへ)す、禮(れい)なり。
 三月、鄭伯(ていはく)、楚(そ)に如(ゆ)く。
 夏、宋公(そうこう)、鄭を伐つ。子魚(しぎょ)(いは)く、所謂(いはゆる)(わざはい)、此(ここ)に在(あ)るかな。
 (中略)
 邾人(ちゅひと)、須句の故(こと)を以(もつ)て師(し)を出(いだ)す。
 公、邾を卑(ひく)しとし、備(そな)へを設(まう)けずして之(これ)を禦(ふせ)ぐ。臧文仲(ざうぶんちゅう)曰く、国に小(ちひ)さきは無(な)し、易(あなど)る可(べ)からざるなり、備へ無くば衆(おほ)しと雖(いへど)も恃(たの)む可からざるなり、詩(し)に曰く、戰戰兢兢(せんせんきょうきょう) 深淵に臨(のぞ)むが如(ごと)く 薄冰(はくひょう)を履(ふ)むが如く、又(また)曰く、敬(つつし)め敬め 天惟(ただ)(こころ)を顕(あらは)す 命(めい)ずること易(やす)からざるかな、先(さき)だつ王(わう)、明(あきら)かに徳(あそば)すこと、猶(な)ほ難(かた)からざること無きがごとし、懼(こは)からざること無きがごとし、況(いは)んや我(わ)が小さき国をや、君、邾を小(せう)と謂(い)ふなかれ、蜂蠆(ほうたい)も毒(どく)(あ)り、而(しか)るを況んや国をや。聴(き)かず。
 八月、丁未(ていび)、公、邾師(ちゅし)と升陘(しょうけい)に戦(たたか)ふ。我が師、敗績(はいせき)す。邾人、公の冑(かぶと)を獲(と)り、諸(これ)を魚門(ぎょもん)に縣(か)く。
 楚人(そひと)、宋を伐ち以(もつ)て鄭を救ふ。宋公将(まさ)に戦はんとす。大司馬(だいしば)(かた)く諫(いさ)めて曰く、天、商(しやう)を棄(す)つること久(ひさ)し、君将に之を興(おこ)さんとするも、赦(ゆる)す可からざるなるのみ。聴かず。
 (後略)

 ※ 語註 ※
※二十二年 僖公二十二年は魯国僖公の在位二十二年目で紀元前638年。なお、45年前となる前683年の荘公十一年、宋国の出水で、臧文仲は被災を弔う使者に立っている。
※邾 黃帝の孫にあたる顓頊という帝王の子孫を周武王のときに封じた地。後の鄒。
※須句 地名。場所は未詳。
※鄭伯 伯は公侯伯子男の伯。
※宋公 公は公侯伯子男の公。
※子魚 宋国の公子。『史記』世家では上記の出水記事にこの人の名前も出ている。
※所謂禍 禍は神罰。所謂禍は後世に喧伝される殷王朝の受けた天罰。
※戦戦... 『詩経』小雅 小旻。
※敬之... 『詩経』周頌 敬之。「控え目に、控え目に、望みが高いと生きにくい、だって天命も高くなるんだから」
※蜂蠆 蠆はサソリの一種。尾が長ければ蠆、短ければ蠍。
※丁未 ひのとひつじ。第44日目。
※升陘 地名。陘の字は谷あるいは坂の意味。
※魚門 城郭の門の名。どこの町のどこの門か未詳。
※大司馬... 大司馬は軍事を担当する官庁の長官。「天がわれらの祖先である殷王朝を転落させたことも遠くなり、わが君はまるでそれを再興なさるおつもりのようですが、大罪を帳消しにしてはならないという一点に尽きます」
※商 殷帝国の別名。

 【 邦訳 】
 (前略)
 邾の国がこの春あった須句の一件がもとで挙兵した。
 わが魯の君である僖公は邾を見くびって、防戦の設営も構えずに迎え撃つつもりだった。
 臧文仲が進言した「国に小さいということはありません、軽んじてはならないのでございます、防備が十分でなければいくら多勢であっても安心するに足ることではないのでございます、詩経の中にこうございますでしょう『ふるえおののけ怖れて慎め 深淵に臨むが如く 薄冰を履むが如く』さらにこうもございます『謙虚に謙虚に 天は人の精神を読み込んで造る お命じになることはたやすくないものだ』先例の王が明々白々にありがたくお教えあるも、やはり手強くないものはない、おびやかされないことはないとなされるも同然でございます、ましてわれらは王どころか大国でもない小さな一国でございます、わが君は邾を小さいとおっしゃってはいけません、蜂やサソリでさえ毒を持つのです、まして敵は国でございます」
 僖公は真剣に受け止めなかった。
 八月の丁未の日、僖公は邾軍と升陘の地で戦った。わが魯軍は惨敗した。邾は魯公のかぶとをぶんどり、それを魚門に掲げて辱めた。
 (後略)

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