『樂羊魏將と為り...時に.』
もっと訓下し

 楽羊(ガクヤウ)、魏(ギ)の将(しやう)と為(な)りて中山(チュウザン)を攻(せ)む。其(そ)の子(こ)、時(とき)に中山に在(あ)り。中山の君(きみ)、之(これ)を烹(に)(あつもの)に作(つく)り楽羊に致(いた)す。楽羊之を食(くら)ふ。古今(ここん)之を称(あ)ぐ。楽羊、子を食ひ以(もつ)て自(みづか)ら信(しん)ず。明(あきら)かに求法(きうはふ)を以て父(ちち)を害(がい)す。
(どうも力不足で笑いのツボが見つからないため原作者自身による苦しい弁解だと解釈しておきます。樂羊食之までの前半は原作からの引用ですが文章の主題を異にすることから一部表現が明確になり略せる表現は略されています。時の字が加筆されました、その折しもという意です。烹之作羹致於樂羊、ここは原作では烹其子而遺之羹でした、原作はあえて遺之羹の句に作羹と致於楽羊の二義を含ませています、致は送り届けるなので楽羊にしっかり届いています。古今稱之、ここは全編の解釈によって読み方が変わり之の次に曰くを補う伝本もあります、ここの古今は解釈にかかわらず昔から今に至るまでの意、今とはこの一編の執筆時、古のほうは最大では楽羊の当時まであり得ますが現実的には原作の発表時でしょう、之は直前の樂羊食之の句を指します、稱の字は多くの場合に称賛の意で用いられますがここは違います、原作で称えられていませんしこの始末書も執筆動機が無くなります、また之の次の曰くも無用です、次に続く作者の言い訳はたいへん難読なので古今の世上に言われるべくもありません、称の字義は稲などの束を持ち上げて数えること、ここの文では話題として取り上げるの意です、おそらく議論を巻き起こしたのではなく作者がよく楽羊のことでからかわれるという背景にすぎないので論うではなく称の字を用いたのでしょう。樂羊食子以自信 明害父以求法、ここは二つの文です、第一文は楽羊は子を食ったことで自身信じたという文意、ここの以は強意、自の字は身と相違して自然とという意味合いもあります、信の字義は人の言葉を自分の心と一致させる、ここはわが子の訃報を自分の心に合致させることです、第一文がこの一編の核心です、続いて明の字は陽ではないので次の害父だけを限定的にあからさまにするのではありません、第二文の全体にかかって証明の意味合いになります、明らかなことはという主語ですが便宜的に訓読文では明らかにという副詞にしておきます、害父は樂羊食之によって父としての楽羊が損傷されることです、第二文の以はゆゑに、求法は熟語になっています、ここの以求法は正確を期せば法を求むるゆゑにと訓みたいのですがわかり易くもならないので簡便に訓みました、要は手段としてという意味です、一編の大意は子を食ったことはわが子の死を認知するための一法だったとなります。)

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