『衛鞅魏を亡げ.』
もっと少し訓下し

 衛鞅(ヱイワウ)、魏(ギ)を亡(に)げ秦(シン)に入(い)る。孝公(カウコウ)(もつ)て相(しやう)と為(な)し、之(これ)を商(シヤウ)に封(ほう)ず。號(がう)して商君(シヤウクン)と曰(い)ふ。商君、秦の法令(はふれい)を治(をさ)め、至(いた)つて公平無私(こうへいむし)を行(おこな)ふ。罰(ばつ)すること強大(きやうだい)を諱(い)まず、賞(しやう)すること親近(しんきん)を私(し)せず、法(はふ)は太子(たいし)に及(およ)び、其(そ)の傅(ふ)を黥劓(げいぎ)す。朞年(きねん)の後(のち)、道(みち)に拾遺(しふゐ)せず、民(みん)に妄取(まうしゅ)せず、兵(へい)は大強(だいきやう)に革(あらた)まり、諸侯(しょこう)は畏懼(いく)す。然(しか)り、刻深(こくしん)寡恩(かおん)に、特(た)だに強(きやう)を以て之を服(ふく)するのみ。孝公之を行ふこと八(十八)年、疾(たふ)れ且(か)つ起(た)たず、商君に伝(つた)へんと欲(ほつ)す。辞(じ)し受(う)けず。孝公已(すで)に死(し)し、恵王(ケイワウ)(かは)りし後(のち)、政(せい)に蒞(のぞ)むこと有頃(しばし)、商君告帰(こくき)す。人(ひと)、恵王に説(と)いて曰(いは)く、大臣(だいじん)(はなは)だ重(おも)ければ国(くに)(あや)ふく、左右(さいう)太だ親(ちか)ければ深(しん)危ふし。今(いま)、秦の婦人嬰兒(ふじんゑいじ)、皆(みな)商君の法と言(い)ひ、大王(だいわう)の法と言ふこと莫(な)し、是(こ)れ、商君主(しゅ)の為(ため)にするに反(はん)し、大王臣(しん)の為に更(かは)るなり。且夫(かつそれ)商君、固(もと)より大王の仇讎(きうしう)なり、願(ねが)はくは大王図(はか)らん。商君帰還(きくゎん)す。恵王之を車裂(しゃれつ)するも、而(しか)も秦人(シンひと)(あはれ)まず。
(衛鞅亡魏入秦 孝公以為相 封之於商 號曰商君、さながら歴史書列伝の下書きかと見まがう略伝風の書きざま、しかし主題主張のある文芸作品のはずである、之を商に封じたので号して商君は『竹書紀年』には魏と戦い撃破して尚の地に封じられたとある、商と尚の違いは口伝だった可能性、商は殷帝国の別名、商と殷の区別に関する諸説はほとんどが眉唾、この場合の商君とは殷時代の暴君を念頭に置いた命名である、また号して商君までの早急な筆運びは一編をその呼び名で通したいため、次から続く商君職務記録は振り出しに戻る、つまり孝公以為相の以は孝公時代の大部分の期間を省略する、弱冠無名の流れ者をさっそく宰相に抜擢する話はない、さて出だしに立ち返って衛鞅亡魏入秦の亡魏は本作の内容に対しては全く働いていないので本作が先行作品の外伝であることを初めに表明する表現である、つまり親作品「魏公叔痤病」は想像以上に評判を取っていたらしい。商君治秦法令 至行公平無私、ここは校訂を見るとおり従来の解釈では区切り位置が適正を欠いていた、黥劓其傅まで4字4字4字5字5字4字4字ではなく6字6字5字5字4字4字の調子が正しい、秦の法令を治むの治は理の意で管理である、秦を治めたのでは孝公の立場がない、至行の至は至極の至、まさに文章語の至ってがこれである、至行で最上級の行いという意の熟語もあるらしい、公平無私は文法的に四字熟語の名詞用法と解釈してみた、しかし四字熟語になったかどうかは微妙。罰不諱強大 賞不私親近、ここの不諱の諱は元祖の名作で印象的に用いられ『史記』商君列伝も拝借している、強大はあくまで国内の勢力、不私親近は自分の人脈党派づくりに利用しない。法及太子 黥劓其傅、これは後段において商君の命取りになるので非人情すぎた処分、太子の傅とは公子ごとに教育係が付けられていたらしくそしてその教育係もかつての公子の場合が多い、増えすぎる公族の雇用対策か。期年之後、期年は満一年のこと、期は朞とも書かれる。道不拾遺 民不妄取、ここの遺は落し物のこと、ここの民は副詞用法で民間にの解釈が善、取の原義は耳を集めまわること、二つの文節は民の不正と官の不正がないという意味。兵革大強 諸侯畏懼 然刻深寡恩 特以強服之耳、ここの兵革は熟語でも革を動詞でも訓める、ただし熟語では革が軍備になる、然は肯定の副詞で直前の文節を追認している、刻深は深を刻み込むことで文脈的には敵国の領土に軍事侵攻の深い爪跡を刻み込むイメージ、対戦国をずたずたに痛めつけるの意、寡恩は頼り甲斐がないことで友好国について言う、特は独特の特の副詞用法で限定的、ここの服は服用の服・着る、耳は限定の助字。孝公行之八(十八)年 疾且不起 欲傳商君 辭不受、この年数には八年と十八年の二伝がある、疾は急病、ここの且は累加の接続詞、辞し不受は辞意し不受ではなく言辞し不受なのでしっかり謝辞を述べてお断りした、そのため商君謀反容疑はへたな言いがかりでしかなくなる。孝公已死 惠王代後 蒞政有頃 商君告歸、蒞の字はよくわからない、莅政でも涖政でも同じく国政にノゾむで政治を見るの意、莅と涖を合体させた蒞は上からも横からも王位に過干渉することか、ガンダレではないクサ冠とサンズイで突っつくような口出しを視覚化しているのか、有頃の頃はしばらく、告帰はしっかり届出して帰ることなので宮廷から私領へ里帰りした。人說惠王曰、この人は匿名処理、或という表現も他の古典で見る。大臣太重者國危 左右太親者深危、ここの大臣は商君、太は大を上回って大きい、重は重要の重、ここの太重は蒞の字のクサ冠から過度に重圧がかかること、ここの大臣太重は商君が大臣の分を越えて威圧的であること、ここの者は訓読の際にバやレバと訓んで原因の条件句をつくる助詞、ここの危は危険性、危の字義は崖の上の人が落ちたくない一心で祈ること、ここの国危ふしは国が危ういのではなく相手の人が国について危ういの意、さて左右の語も冒頭の亡魏と同じく本作に無関係、何気に親作品の批評を紛れ込ませている、ここの太親は近付きすぎているという形容、深危とは相手の人が心の奥について危ういの意、その深の字を身とする伝本もある。今秦婦人嬰兒 皆言商君之法 莫言大王之法、この場合の婦人嬰兒は女性と男性と女児と男児、皆言...と莫言...は商君系と大王系の二系統の法があるとは考えられないので秦の法を商君法と言うか大王法と言うかの問題。是商君反為主 大王更為臣也、是の字義はお日さまのように正しい、ここでは論証的なあきらかにという語感で用いられた、反為主は謀反して君主と為ると読めそうだがそれは先君の禅譲騒ぎのおかげで説得力を欠く、それを含みとしつつ第一義は主君の為にするという臣下の本分に反するだと解釈した、一方の更為臣は更が更迭の更で為は原因の為、臣下のせいで強制的に王位から干されるの意。且夫商君 固大王之仇讎也 願大王圖之、且夫は発語、ここでは切り札を出す景気付け、もっとも夫をカのと訓んでも問題はない、固大王之仇讎は太子の傅を残酷刑に処した報告があった、王之仇の之がない伝本もある、圖之の図は企図や意図の図で度量衡の度の意味だが設計図などとも使われるので計画を練ったり工夫したりもする、之のほうは強意で解釈した。商君歸還 惠王車裂之 而秦人不憐、車裂の刑は複数の馬車で刑人の体を引っぱり合って裂いたといわれる、ここの而は逆接、不憐の憐は隣という字の仲間で心が寄り添うこと。)

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