『深刻な秦国』
現代日本語訳

 かの衛鞅──、梁恵王と公叔痤のふざけた掛け合いのせいで大国の魏から避難するはめになった有名な公孫鞅のことだが、秦に亡命した後の彼について僭越ながら少々補足する。
 すでに語られているとおり衛鞅は秦の孝公に大歓迎で受け入れられて頭角を現す。やがて宰相となり、商の地に封じられたので商君という。よってこれからは商君と呼ぶ。
 孝公に用いられた当初から、商君は秦の法令の監督官になり、いたって公平無私な仕事ぶりだった。国の実力者であろうと果敢に罰し、逆に褒賞する場合も身びいきをしなかった。法令を太子にさえ厳格に適用し、お守り役をむごたらしい囚人顔の刑罰に処すほどだった。
 そして一年。公道で拾得せず、民間からゆすり取らず、秦では民も役人も不正に着服することがなくなった。国民性の紀律正しさは軍事力強化につながり、周辺諸侯は恐れおののくばかりだった。それはそうだ、敵となれば苛烈に痛めつけ、味方になっても面倒は見てやらない、ひとえに強国の武威だけで面従を獲得したのだ。本当に恐れられるだけだった。
 秦君孝公はそんな商君流を実践すること八(十八)年、急病で倒れ、快方の見込みもなく、いにしえの聖帝に倣って商君に譲位したいと思った。だが当の商君が正式に辞退した。
 孝公が他界し、代わって恵王が立った後、しばらく摂政として新君主の指導にあたっていた商君はあるとき用を告げて領地へ出かけた。
 その留守のあいだに某方面から恵王に吹聴する者があった。
 「大臣がことさらに出しゃばるようでは国を失い、お側の者にやたら何でもかでも打ち明けるようでは心の奥深い悲しみも天下のお笑いぐさとなりましょう。
 いつでございましたか、世間話の折、相手が商君の法と口にしました。秦国の法のことでございます。おかしいと思ってそれから誰の話にも気を付けておりましたが、一人残らずでございました、秦の男女も男児女児もみな漏れなく商君の法と呼んで大王の法とは申しません。
 ここまでくれば商君が主君を輔ける本分にそむき大王がそんな臣下のせいで消えかけておいでだと申し上げずにおられましょうか。
 そうでございました、かねて大王はまだ太子でございました頃から商君にはずいぶんな仕打ちをこうむっておいでではございませんでしたか?
 またとないただ今のこの機会でございます、どうか大王ご自身のお心で来し方行く末などをお考え下さりませ。鬼の居ぬ間と申します」
 商君が領地から戻ると、恵王はそれをむごたらしい車裂きの刑罰に処してしまった。それでいて秦の国では誰一人として彼に同情するということがなかった。

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