『バカを見た』
解題

商鞅map1

【 追記 Sep 06, 2020 】
 新たな口語訳を付け足し、訓読と語釈も見直しました。
サイト管理人

 驚きの推理小説です。
 強秦の鴻基を築き、魏国には恐怖の魔王となった公孫鞅。もとはといえば公叔痤から推薦されていながら、魏王は何ゆえに疑ってしまったのか──「バカを見た」。
 まさか紀元前の漢文作品で推理小説をやられるとは思いも及ばないことでした。解釈にかれこれ何ヶ月を盗られたことでしょうか。もうこりごりです。
 といっても推理小説の様式を確立しようとした作品ではありません。推理小説ならではの種明かしの手法を使っているのです。
 この一編のあらすじは一諸侯が賢才を召し抱えそこね、ために傾国の憂き目を見るというものです。
 戦国時代、最たる傾国といえば魏国でした。戦国前半は最大勢力を誇り、一転して戦国後半は滅亡に至るまで失地が続きます。
 運勢の下降を浮き彫りにするにはうってつけの残念モデルでした。
 一方、主題でいえばこの一編は人間の心理作用を考察しています。いわば疑心暗鬼を生ず系、あるいは病は気から系の作品です。
 心のケアといえば最近よく聞く表現ですが、病は気からということわざが知られるとおり、心理状態が体の健康状態にも影響することは昔から意識されていたようです。
 また昔から笑う門には福来るともいい、将来的な禍福についてもです。
 この一編の最後に悖者之患という語があります。千載一遇の推薦を誤解していた恵王の心理状態です。
 患という字はこころに串が突き刺さっています。恵王の心にトゲのように誤解が刺さっていたという比喩です。
 結末の原文は誤解の刺さっていた恵王の心理状態が尋常な公叔痤をたわけているかのように疑わせたという文意です。
 もちろん含意があります。国の将来について意見を求めるほどの公叔痤なのに、親しく頼りにする彼に悖という汚い侮蔑のことばを吐き捨てる恵王は心がすさんでいます。
 それは誤解を患っているせいですが、そうした不機嫌な精神状態では公叔痤に限らずおよそまともな人の意見に耳を傾けられません。そしてまともな意見を聴けなければどうなるか。
 現に恵王はまともな公叔痤の推薦を疑ってしまい、天下の賢才を召し抱えそこね、その失点の報いを受けることになります。
 つまり、悖者ノ災厄は疑念に取り憑かれた恵王の心理状態が自ら必然的に招き寄せているのです。
 ダークなマインドには現実のバッドなエンディングが訪れる、この含意が本作品の主題です。
 作者はその主題を魏の恵王に演じさせます。
 福々しい生まれ育ちはさておいて、たしかに国運が下降に転じたとされる時期の君主です。
 配役は公叔痤と公孫鞅、このうち公叔と公孫は一般名称なので、固有名詞は痤と鞅という一字づつだけ、それぞれ役柄にふさわしい字を当てられました。
 公叔から推薦の辞を聞くと、恵王は無反応で能面のようになり、病室を出て言います。
 「国政なら必ず鞅にお聴き下され──。なんとたわけたことを!」
 公叔のことばを的確に復唱していました。そして癇に障りそうな点はちょっと見当たりません。それなのに恵王は罵倒します。この前後に何か説明がなければ、聞く人には公叔のどこが至らなかったのか皆目わかりません。
 しかし作者は説明せずに物語を進行させます。
 そして恵王に悪い運命が現実に訪れた後、作者は最後に端的に謎を説明します。悖者之患固...。この最後に置かれる患、固の二字に高圧縮された情報が推理小説の種明かしなのです。
 とはいえ、不機嫌になった原因はついに明かされません。そこまで明かせば完全に史上初の推理小説だったかもしれませんが、まだ紀元前の東洋人作者は人間の心理作用について世のためになることが書ければ漢のポーにならなくても満足だったようです。
 本作品は望外に大成功を収めます。
 本作品のたとえ話が『韓非子』難言篇に歴史上の一事例として引用されました。
 また『史記』商君列伝の中ではそれがさらに膨らまされています。
 それはしかし当の作者にすればズレた褒められ方かもしれません。

May 09, 2020 - サイト管理人

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