『引き立て将軍』
もう少し訓下し

 1.
 魏(ギ)の公叔痤(コウシュクザ)、魏将(ギしゃう)と為(な)りて韓(カン)(テウ)と澮北(クワイホク)に戦(たたか)ひ、楽祚(ガクソ)を禽(とりこ)にす。
(第一節。魏公叔痤、べつに主人公が公叔痤でなければ始まらないような主題でもなさそうだが、魏の公叔痤に白羽の矢を立てたために韓趙や楽祚そして呉起などのもっともらしい固有名詞がそれらしく配置される、魏は春秋時代の晋国の分裂によって生まれた三国のうちの一国、同じく三晋と称される韓や趙といつも骨肉の争いを繰りひろげていたとされる、公叔は王の叔父さん、公叔痤は他の一編にも登場する、作品の内容と痤という特異な名前から推察してその一編のほうが先に作られたと考えられる。為魏將、戦国策にある他の諸編にも誰それが将軍になって戦ったと語り出される作品は多く、諸編の著作された前漢初期において野蛮なチャンバラ物語が凄まじい人気だったことを偲ばせる、さて客寄せ目的で重宝されていた誰それが将軍になったという語り出しの語法に定型はなく、将軍と為るの為の字が使われたり使われなかったり軍に将たりと将の字を動詞で使ったり使わなかったりする、この一編は「為」の字がキーワードになっているので書き出しから抜け目なく魏将に為りてと「為」の字を挿入した。禽樂祚、禽は動詞用法、楽祚は楽毅を輩出する楽氏一族の人、楽氏は魏の文侯の頃から魏国や趙国で多くの名将を出す。)
 魏王(ギワウ)(よろこ)び郊迎(かうげい)し、賞田(しやうでん)百萬(ひゃくまん)を以(もつ)て之(これ)に禄(ろく)す。
(第二節。魏王、歴史背景としては魏武侯の末年から梁恵王の初年あたりを想定した作品だが、武侯も恵王もこの作品の魏王には適しないので魏王という一般名称は該当者がいないという意味かもしれない。説、悦と同義。郊迎、前漢初期に著作された戦国策諸編にあってこの作品は熟語の類いを多用している点からも成立時期が新しいと考えられる、郊迎は凱旋将軍を君主が国都の郊外まで飛び出して出迎えるという成句、それほど勝利に興奮したという意味。)
 公叔痤、反走(はんそう)再拝(さいはい)し辞(じ)して曰(いは)く、夫(そ)れ士卒(しそつ)をして崩(くづ)れざらしめ、直(ちょく)にせしめて倚(よ)らざらしめ、揀撓(かんたう)せしめて辟(ひが)めざらしむるもの、此(こ)れ呉起(ゴキ)の余教(よけう)なり、臣(しん)は為(な)す能(あた)はざるなり。地形(ちけい)の険阻(けんそ)を睒眽(せんみゃく)し、利害(りがい)の備(そな)へに決(けつ)し、三軍(さんぐん)の士(し)をして迷惑(めいわく)せざらしむは巴寧(ハネイ)爨襄(サンジヤウ)の力(はたら)きなり。賞罰(しやうばつ)を前(まへ)に懸(か)け、民(たみ)をして昭然(せうぜん)と後(しり)に信(しん)ぜしむは王(わう)の明法(めいほふ)なり。敵(てき)の撃(う)つ可(べ)きを見(み)るや、鼓(こ)し敢(あへ)て怠倦(たいけん)せざるものは臣なり。王(わう)(とく)に臣の右手(いうしゅ)の倦(う)まざるが為(ため)に臣を賞(しやう)するは何(なん)ぞや。若(も)し臣の功(こう)(あ)るが以(ゆゑ)ならば、臣に何(なん)の力(はたら)き有らんや。
(第三節。反走再拝辞曰、再拝し辞して曰くは慣用表現、古来の礼としては二度まで固辞して三度目で拝受するという手続きが正式だが後世には二度の固辞をお辞儀二回に略したらしい、反走は二度まで固辞する謙遜では飽き足らずもう一つおまけに辞退するパフォーマンス、走は前方へ進むこと、反走は背後へ進むことなので駆け足の後ずさり。夫使士卒不崩、夫は発語、使は使役の語でこの文では文末まで掛かる、士卒は士官兵卒でここでは軍隊の別称、崩の原義は山が真っ二つに割れる、士卒をして崩れざらしむは行軍を割れさせないこと。直而不倚、士卒をびしっと直立させてだらしない姿勢にさせない、軍容が見た目良く整っている様。揀撓而不辟、揀は手ヘンに諫めるで実力行使の排除、揀退という熟語は選びだされて辞めさせられること、撓はたわむことで今も不撓不屈という熟語が使われる、揀撓とは意識的に狙ってたわみを間引くこと、辟は中心や原点などから遠くに偏ることだが他にも多岐にわたる意味がある、ここはユルみタルみを間引いた上での不辟なので規則から遠ざからないこと、辟には掟や決まりという語義もあるらしい、士卒をして揀撓せしめて辟せざらしむは気の緩みを取り除かせて軍規違反させないということ。此呉起余教、此は以上の全内容、呉起は伝説上の名将、当初は魏武侯に仕える将軍という設定だった、次いで先代の魏文侯に召し抱えられたというエピソードが補足される、その後さらに楚国へ亡命するという流転物語も追加されたがこの一編はそこまで波乱万丈になる前に書き上げられた、余教はこの場合は教練の残り香。睒眽地形之険阻、伝本では前脈となっていてその通り医者が脈を診るように地形之険阻を診断することだと解釈する読み方もあるが伝本はおそらく誤写である、地脈という語があるにはあるにしろここの文意からは遠い、脈は目ヘンの眽の誤り、眽地形之険阻は地形の起伏のほうぼうに目を配るの意、この文節では目視しておくだけ、睒は伝本にある前という字に当ててみたが無理な気もする。決利害之備、ここの決は決壊、一定方向へ堰を切ること、ここの備は心の準備、地形之険阻が自軍にとって有利か不利かきっぱり用心した。使三軍之士不迷惑、使は使役の語、三軍は上中下軍で全軍、全軍の士官をとまどわせなかった。巴寧爨襄之力、巴寧も爨襄も人名、その命名由来は不明、力はチカラと訓んでもよい。縣賞罰於前 使民昭然信之於後者 王之明法、この文は前二文と違っている、前の二つの文では呉起と巴寧爨襄を称揚しているがこの文は誉め言葉ではない、文意は士卒の前にぶら下げた賞罰が王の明法によって厳正に履行されてこそ後ろのほうでは民の信頼を獲得するという進言、要するに国政への影響を考えても前二文の功労者たちに褒美が必要だと説く文である、この文の之は強意の助字、最後に引用する老子の言葉が政治論の一節なので前もってここで政治に言及した。鼓之不敢怠倦、鼓は自軍を鼓舞したの含意もあるが第一義は陣太鼓か何かを打ち鳴らしたの意、之は強意の助字、すなわちこの文節も倒置形である、ここの敢は副詞で用いられているがこの字は勇敢や果敢などの熟語に使われることもある。王特為臣之右手不倦賞臣、この特は伝統的にはタダにと訓んで独りの意、副詞用法、しかし現代的に訓読しておいた。)
 王曰く、善(よ)し。
(第四節。王曰善、善は目上の者による肯定の常套句、神のまえに二人いて口を開いたという成り立ちの字、良い意見だと評価するというより相手の要望どおりに取り計らうと容認する。)
 是(ここ)に於(おい)て呉起の後(のち)を索(もと)め、之に田(でん)二十萬(にじふまん)を賜(たま)ひ、巴寧爨襄に田各(おの)おの十萬(じふまん)
(第五節。於是索呉起之後、於是は戦国策の初期作品ではよく結末部分の文頭に置かれた接続句、この一話もここで公叔痤の佳話を締めくくって後文は作者による論評である、索は捜索の索、文語的にはサガすよりモトむ、後は後裔。)
 2.
 王曰く、公叔(コウシュク)(あ)に長者(ちやうじゃ)に非(あら)ずや。既(すで)に寡人(くわじん)の為(ため)に強敵(きやうてき)に勝(か)ちたり、又(ま)た賢者(けんじゃ)の後(のち)を遺(も)らさず、能士(のうし)の跡(あと)を掩(おほ)はず。公叔何(なん)ぞ益(えき)(な)かる可(べ)けんや。
(第2段に進んで、第六節。王曰公叔豈非長者哉、この王曰は前出の王曰善の続きではない、断絶している、とりあえずこれ以降は作者の自説としておくが、あるいは後人の加筆改作があったのかもしれない。不掩能士之跡、この能は才能や能力といった資質ではなくはたらき、この場合の能士之跡ははたらきのあった者の足跡で見落とされがちな手柄ほどの意味。)
 故(ゆゑ)に又(ま)た田四十萬(しじふまん)を与(あた)へ、之を百萬の上(うへ)に加(くは)へ、百四十萬を使(つか)はす。
(第七節。故又、前節からは話ではなく論説なのでここの故は論文調のユヱに。)
 故(ふる)く老子(ラウシ)曰く、聖人(せいじん)(せき)(な)し、盡(ことごと)く人(ひと)の為を以てするも、己(おの)れ愈(いよ)いよ有(いう)し、既(すで)に人に与へるを以てするも、己れ愈(いよ)いよ多(おほ)し。
(第八節。故老子曰、ここの故はユヱにではなくフルいの意、なぜならこの老子を一般名詞の古典や古言に置き換えるとここに故は無い、古言に曰くの場合はユヱにが無用なのだから老子の場合もユヱには無用、この故の字はフルいかモトよりと訓む。聖人無積、正しい訓読はアツむることナし、長たらしいので積を音読した。以下に引用される言葉は老子の最終章の一節、最終章の全文を別に解説する。)
 公叔之に当(あた)る。
(第九節。公叔當之矣、この場合の矣は断定の助字、几帳面に訓めば当りたりだが当ると終止形で断定しておいた。)

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