『魏惠王死す』
もう少し訓下し

 第1段.
 魏(ギ)の恵王(ケイワウ)(し)し、葬(さう)に日(ひ)を有(かぎ)る。天(てん)(おほ)いに雪(ゆき)を雨(ふ)らすに、半月(はんげつ)に至(いた)り、城郭(じやうかく)を壊(こぼ)つ。且(まさ)に桟道(さんだう)を為(つく)りて葬(さう)せんとす。
 群臣(ぐんしん)(とく)に太子(たいし、=君主の葬儀は次期君主である太子が喪主)を諫(いさ)むる者(もの)、曰(いは)く、雪(ゆき)ふるに甚(はなは)だしきこと此(かく)の如(ごと)くなるも喪行(さうかう)す、民(たみ)は必(かなら)ず甚(はなは)だ之(これ)に病(くるし)まん、官費(くわんぴ)も又(また)(た)らざるを恐(おそ)る、請(こ)ふ期(き)を弛(ゆる)め日を更(あらた)めん。
 太子曰く、人(ひと)の子(こ)(た)るに民の労(らう)と官(くわん)の費用(ひよう)との故(ゆえ)を以(もつ)てして先王(せんわう)の葬を行(おこな)はざること不義(ふぎ)なり、子(し)(ま)た言(い)ふ勿(なか)れ。
 群臣皆(みな)(あへ)て言はざるも、以て犀首(サイシュ)に告(つ)ぐ。
 犀首曰く、吾(わ)れ未(いま)だ之(これ)に言ふの以(ゆゑ、=故。適性、適格)を有(も)たざるなり、是(こ)れ唯(た)だ恵公(ケイコウ)か、請ふ恵公に告げん。
(=第1段は状況説明の序説そして恵子登場のためのお膳立て、校訂欄を見るとおり二段に分割する考え方もある。この一編も名文なので訓読文だけでほぼ内容を了解するはずだが、校訂や先生方のお手本と見比べるとおり随所に独断的な訓読が目に付くので、主にそのへんを弁解していきたい。冒頭文、魏惠王死 葬有日矣、この有は荘子学派の用語では有限を言うらしい、後文の期すという語も考えあわせ、日をカギると訓んだ、葬儀について期日を決めていたという文意、今ならば葬有期日とするが、有日でも限った日付すなわち締切り日の意味になるから期は不要という理屈である、しかも納期締切りを限る有日とすれば尻に火が付くので太子の追い込まれた心境の解説にもなる、ちなみに期の字はまる一か月のことも言うので期日ならば満一か月目とも受け取られた。次に校訂では天大雨雪 至於牛目 壞城郭 且為棧道而葬の文が続く、このうち牛目はどの伝本も牛目だが、ここは書写の際には牛月とあったはずで、牛月という語の意味を解しなかったので牛目と誤写した、そして牛目では文意不明になった、この牛目は作中に二度出てきて、至於...あるいは及...という言い方がされる、これは時間を指示する語句である可能性が高い、助字の於を伴うほうの至は雪が地に降るさまを視覚化したいために時間について無理気味に用いられた、さて牛目は時間でもなくとにかく意味不明、牛月は強引に納得するならまる一か月のこと、しかしその牛月もおそらく元々は半月とあった字句の誤写だろうと想像した、半の字は牛の書体が二分されている。二段落目の群臣多諫太子者曰、多をトクにとする訓読は特殊、ここの文意は群臣の多数派意見を代表して太子に諫言する者いわく、この多はちょっと一義では訓みきれなかった。民必甚病之 官費又恐不給、次に太子が民労と表現するのでここには之を苦にするとあるはずだが病の字を代用して民に風邪をひかせてしまうと平易な表現で諫めた、二句目の官費についての文意は官費の資金繰りに窮する恐れがある、いわゆるデフォルトの財政破綻で脅かしている、給の字は補給が第一義で支給は二の次、ここの民政財政の支障は戦いに惨敗した結果と一緒。犀首は公孫衍のあざな、馬陵の戦い.1のページの二話目と馬陵の戦い.3のページを参照、同じあらすじのドラマを恵子と競演した。吾未有以言之也の簡略文を直訳すると未だ之に言ふ以て有らず、大意を見るといかに名の聞こえた説客でも縦横家=利害論者はお呼びではなく名家=詭弁家の出番となるので、直訳の文意はこの案件が縦横家の犀首には向かないというもの、直訳のうちの以ての省略語法は第一に適性という意を含んでいることになる。是其唯惠公乎、ここの其は強意の助字、直後の唯はただひとりの意、句末の乎も強意、つまり唯一人と恵公とを強調する、儒教の命題である孝心という道徳問題の解決に打ってつけと紹介される恵施、これがこの一編の結びのための布石である。)
 第2段.
 恵公曰く、諾(だく)。駕(が)して太子に見(まみ)えて曰く、葬に日を有(かぎ)る。
 太子曰く、然(しか)り。
 恵公曰く、昔(むかし)王季歷(わうキレキ、=周文王の父)の楚山(そざん、=陝西省南部と伝わる、周国の故領内)の尾(すそ)に於(おい)ての葬に、灓水(らんすゐ、=河川の名称。出水のこととする説があり、たしかに灓は水があふれ出すという字らしいが、再出時の語法を見ると河川名。そのほか未詳)、其(そ)の墓(はか)を噛(か)み、棺(ひつぎ)の前和(ふた、=調べてもよく分からなかったが、この棺は木棺、前は剪定の剪で剪り揃える、和は和合や調和なので、棺の蓋以外ない、一番に地表に顔を出す。しかし棺の頭部とする説がある、その根拠は不明)を見(あらは)す。文王(ブンワウ、=周の王季歴の子)曰く、嘻(ああ)、先君(せんくん)(かなら)ずや群臣百姓(ひゃくせい)に一見(いつけん)せんと欲(ほつ)するかな、故(ゆゑ)に灓水(らんすゐ)をして之(これ、=地中の王季歴の棺)を見(あらは)さしめん、是(ここ)に於(おい)て出(いだ)して之(これ)が為(ため)に朝(てう)を張(は)る、百姓皆(みな)之に見(まみ)える、三日(みか)して後(のち)葬を更(あらた)む、此(こ)れ文王の義(ぎ、=ここの義は釈義の義)なり、今(いま)葬に日を有(かぎ)る、而(しか、=逆接)るに雪(ゆき)ふること甚だしく、半月に及(およ)び、行(かう)には難(かた)かるに、太子日に及ばんが故の為に亟(と)く葬せんと欲するに嫌(いと、=厭う)ふ毋(な、=無し)きを得(え)んか、願(ねが)はくは太子(たいし)日を更めん、先王必ずや少(すこ)し留(とど)まりて社稷(しゃしょく)を扶(たす)け黔首(けんしゅ)を安(やす)んぜんと欲し、故に雪をして甚だしからしめん、因(よ)りて期を弛めて更め日を為(まうく)ること、此(こ)れ文王の義なり、若(も)し此(か)くとても為(な)さざるは、意(こころ)する者(もの)文王に法(なら、=倣)ふを羞(は)づるか。
 太子曰く、甚だ善(よ)し、敬(つつし)んで期を弛め、更め日を択(えら)ばん。
(=第2段は本題、恵子と魏太子の対話形式。前段で調えられた条件を確認すると、半月に及んだ降雪、見上げると魏都の外郭も崩落していた重々しい銀世界、折悪しく先君恵王の葬儀の日取りが迫り、これ以上に孝心が試される行事もない太子にすれば墓所まで雪上に馬車のための板敷を渡す大仕事になっても葬行の日取りだけは固く守る気でいる、群臣の大半は雪が融けるまで延期したいが民の苦労や国庫枯渇を説いても期日しか見えなくなっている太子には聴かれない、群臣には手が付けられないので名の聞こえた説客の公孫衍に伺いを立てるが利害を説く縦横家の出る幕ではなかった、ただしひとり恵子だけが打開できるとしてこの問題を取り次いだ。では第2段の頭から見ていって、恵子の諾と駕、尋常といえば尋常だが偉そうといえば偉そう、この場合の諾は事も無げに余裕綽々。続く葬有日矣の矣はここでは疑問用法もあり得る、ただし文勢以上に勢い込んでしまう恐れもある。楚山之尾の尾はふもとでもすそでも尻尾らしければいい。文王曰 嘻 先君必欲一見群臣百姓也夫、ここの也は必にくっつけてかならずやと訓んだ、尻の夫は嘻を受けて感嘆のカナ、つまり必とはあるけれどそこまで断定する確信は持てない推定の感嘆形だと思った。張於朝の張は宴を張るなどと同じ用法、すると張られる朝は朝議でも朝臣百姓を参集させるだけという形ばかりの朝議。此文王之義也、此という語は後文の出現箇所で重要度が増す、そしてここの義という単独用法も後文で大化けするのだが、ここでは第一に意味のことで、ここの文王之義は文王の解釈した意味と言っている。難以行、以の語で前文を受ける場合は以難行とあって以て行ひ難しと訓むことになる、ここは行以て難とあるから喪行にはなにかと不都合と言っている語法。太子為及日之故 得毋嫌於欲亟葬乎、またこれも直訳してみると太子日に及ぶの故の為に亟葬せんと欲すを毋嫌するを得るか、大意としては強迫観念に駆られた破れかぶれの無理筋ということになるが、文脈上はプライドが傷つかない言い方にして太子の判断に理解も示したい、欲亟葬はすみやかにだが期限極まる状況の亟やかは焦燥する、毋嫌はイトふナしでいとわず、この文はつまり期限差し迫る葬儀を断固決行すると果敢な考えを持ったのですねという言い回し、太子の決断を勇敢だったように言いつつそれが焦燥させられる極限状況の闇雲な判断だったことも悟らせる、毋嫌の語がビミョーで面白い。社稷をタスくの社稷は国家の代名称、黔首をヤスんずの黔首は人民を言う秦代の語とされる、言うまでもなく恵施は戦国時代の人。此文王之義也は反復、しかし前出時の文王の義は文王の釈義や美談という程度の意味、それがこの再出では文王の故事に基づく道義や規範という意味に特進昇格している、これは一字では語義が曖昧になるが偉そうといえば偉そうな義という語の権威をずるく利用した老獪な修辞法である。次の若此而弗為 意者羞法文王乎の文は A モしそのココロは B かという疑問形構文の倒置法、倒置前のその構文は A モしくは B かという疑問文型を A の理由について問う文型に改めて A はアルイはそのココロは B か、倒置させてアルイは A そのココロは B か、そこで原文の訓みかたは若し A 意は B か、しかし簡明に此の若しなれども為す弗きこと意は...と訓んでも間違っているわけではない、此而の而は逆接、此は全体まとめの集約代名詞で論説の主旨を指示する、弗為の弗は払いのける感じの否定、羞法文王乎は文脈上は周文王の猿真似で二番煎じを演じることが恥づかしいのかという意、しかし前出にある義という語のずるい用法と連係させて真似ではなく周文王により定められた道義的規範に則ることだと借字して太子の背中を押した)
 第3段.
 恵子、徒(た、=立って。地に足がついて。独自に立脚して)ちて其(そ)の説(せつ)を行ふのみに非ざるなり、恵子、魏太子をして未だ其の先王を葬させざるのみにも非ざるなり、而るに因(ちな)みて、恵子、文王の義を説くのみにも非(あら)ざるなり。文王の義を説(と)き以て天下に示(しめ)すこと、豈(あ)に功(こう)を小(ちひ)さしとせんかな。
(=第3段は創作者のあとがき。恵子は儒学の面目を丸つぶれにしていないかという快哉だと理解した。さて前段までの本編物語を読み解いてから創作者のこの結びの感想に至ると、およそ本気で物を言っているとは思えない。なぜならこの一編の最大の見せ場は恵子があざやかに太子を丸め込むところにある、それなのにこのあとがきは恵子が文王之義を説いて以示天下したことこそお手柄ではないかととんだ的外れを言っている。しかしこれは的外れなのではない、そもそも本編ドラマにあとがきの作者感想を付け足す決まりはなくむしろこの一編は本来ならば書く理由がないものなのに書いている、するとこの作者感想こそ正解なのである、読者が必ず間違うからこの作者は最後にベロを出してあざ笑っている。そこで作者感想に従って前段までの本編物語を読み直してみると、孝という徳に固執してはた迷惑な魏太子は儒学の毒に冒されている、この物語はその儒毒を恵子が解消したという筋立てになる。第3段の冒頭文、この冒頭は三文節から成る長い一文だが、その第一文節にある徒の字はタダにの用法、ただし意味はタダにでもイタヅらにでもなく地に足がついていること、恵子の説が彼独自の哲学に立脚しているの意、先学の教えにぶら下がるだけで自身の考えに立脚しない儒派に対する皮肉、第二第三文節の又の字は第一文節の非徒...也の文型を省略している、省略しない場合は訓み下し文のとおり、この冒頭は一般には非徒 A 又 B の文型で解釈されている、それはタダにAのみにアラずマタBと訓んでAもBもという意になる、しかしこの第3段はそれでは文意を成さない、つまりAもBもCもで結論としてCは豈に小功ならん哉ではAとBの善悪や重要度が皆目不明になる、さらに第一文節の也の字が読めないという欠陥もある、そこでこの第3段は非徒...也の文型を三度くりかえしてAもBもCも上出来だったが何といっても最大はDと訓む、創作者が恵子話術最大の功とするそのDは說文王之義 以示天下、以て天下に示すとは恵子のたとえが未だ天下に示されざる周文王の逸話だったということ、すると周文王の新作逸話をいとも簡単に現わす恵子はそれを借りるしか能のない儒者を凌駕することにならないか...と世に問う作品だと理解した)

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