『恵施の逆転覇王道』
現代日本語訳

 (斉と魏が決戦した馬陵。またも斉が圧倒的に魏を破り、太子の申を殺し、十万の大軍勢を葬り去った。
 再度の不名誉、兵十万の亡失、そして跡継ぎの犬死に。屈辱と悲嘆に沈んだ魏王は左右の者へ話しかける声も小さい。
 「わが国で最も知恵者といえば誰だろう?」
 「知恵者でよろしいのですか? そういうご質問であれば恵施さま以外の名を挙げる者はおりませんでしょう」
 「恵施なのか? ふむ、まあいい。ではその恵施さまを呼んで参れ」)
 魏王は重い声で忿怒のたかぶりを抑え込みながら恵施に告げるのだった。
 「あの斉の国はわたくしの憎しみだ。これほどの怨みは眼が黒いうちは忘れるものではない。わが国はこうまで弱小だが、わたしはやれる限りは兵を送り出してあれをやっつけねばならんのだ。さてどうやる?」
 しかし恵施は彼らしく相手の話が始まる前から首を横に振っていた。そして魏王の話のしっぽに連結させて、開口一番、あまりにあたりまえのことだが反対した。
 「いいえ、いけません。──そうですな、わたくしは王者と覇者については次のように教わってきました、王者は適度に致すことを心得ているもので、覇者は取り計らうことをよく知っているものでございます。そこで...わが王のお気持ちをおとなしく微動だにせず傾聴いたしておりましたが、王者の適度でもなく覇者の取り計らいにも遠すぎると言わねばなりません。わが王はそもそも持ってお生まれのご性分なのか、初めは趙氏のほうに怨みを結び付けておいででしたのに後では斉の国と斬り結んでおしまいになる、そして戦いははかばかしく参らずわが国では兵士の姿が消えました、それなのにまだわが王はやれる限り何かしらを送り出してやっつけてやると仰せになる、これは破滅を急ぐというのでしょうか、わたくしの申しております王覇の道ではございません。ところでわが王は斉を攻めたいとのお考えのようですが、まことのお心は斉の連中に仕返しなさりたいのではありませんか? しかしそれには、敵を征服したいというお気持ちではなく状況に服従するという心掛けにお変わりになり、はかばかしくない時節には逆らわず身を低くして、いっそのこと斉の国に降参しておしまいになるべきです、貢ぎ物を手にしてわが王ご自身でご挨拶に参られればなお良いでしょう、いえ、これこそまさに王者の道というものです。さて、そうすると間違いなく楚王が怒りだします。わが王はなにもせっせと国力を消耗することなどありません、もう血なまぐさいことからは隠居したお顔をなさって、血気盛んな南蛮王の闘魂を陰から激励してさしあげることです、間違いなく楚王は憎しみ募る斉に挑みかかるでしょう、ここ最近おとなしく兵力温存していた楚が戦いに疲れた斉を伐てば結果は言うまでもありません、それはわが王が楚をうまく使って斉をやっつけてやったということになるとは思われませんか?」
 魏王は眼を輝かせていた。
 「おお、まさに、それが王覇の道というものだ」
 さっそく使者を斉に送り出し、恵施の提案どおりに申し入れさせ、王者として他国に従属することになり、覇者として自分では戦わないことになった。
 (斉の宰相となって日が浅い靖郭君こと田嬰は渡りに着いたばかりで舟が来たようにどたばたと魏王の申し出を許諾した。
 すかさず戦醜という説客が面会を求め、開口一番、反対した。
 「いけません。もし戦いに勝ちもしないのに魏王を心服させ、固く男同士の心の絆が結ばれてから一緒にたとえば楚へ攻め下るというなら、それこそが大いに勝つ手順なのです。しかし実際には魏をやっつけ、十万の軍を葬って太子の申まで討ち取りました。そうした上で魏の従属を受け入れるのでは、それは本当に万乗の国を見下してしまうことになり、同じ万乗の大国である秦と楚の神経も逆撫でしてしまいます、わざわざ自分から他の諸侯に討伐の大義名分を配って回るようなものだとお気づきになりませんか。そう考えてくると、楚王の性格が非常に気になります、彼は血気盛んでとりわけ名誉にかかわればがむしゃらになるのです、けっして楚の反応から目を離すことはできません」
 しかし田嬰はその意見を一蹴した。そして朝貢する魏王を迎え入れ、お互いの主君となる斉侯の前に魏王とならんで推参することが再三にわたった。かつて天下に君臨しているかのようだった大王と肩を並べる田嬰の顔は若い興奮にのぼせあがっていた。
 さて天下を見渡すと、かねて魏と斉をかってに当面の競争相手と見なしていた趙氏はそうした斉国の抜け駆けが癪に障った。そして真打ち登場、楚王が猛烈に怒り、自身が軍勢の先頭に立って斉へ攻め込んだ。趙もそれに呼応し、こうして二国は徐州で斉をこてんぱんにしたのであった。)

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