『韓非子』難言
訓み下し文

(金谷 治訳注『韓非子』岩波文庫版より金谷治先生のお仕事を引用する。もっとも、以来ずいぶん時代が下り、便利なWEB情報社会となって、錦の着物にも若干のほころびが目に付くので、僭越ながら補繕を付け足した)
 前段.
 臣非(ひ)、言ふを難(はばか)るに非ざるなり。言うを難(はばか)る所以(ゆえん)の者、言の順比滑沢(じゆんぴかつたく)にして洋洋纚纚然(ししぜん)たれば、則(すなわ)ち見て以(もつ)て華(か)にして実ならずと為(な)さん。敦祗恭厚(とんしきようこう)にして鯁固慎完(こうこしんかん)なれば、則ち見て以て掘(せつ、拙)にして倫(みち)ならずと為さん。多言繁称(はんしよう)にして類を連(つら)ね物を比(なら)ぶれば、則ち見て以て虚(きよ)にして用無しと為さん。微(び)を惣(す、総)べて約を説き、径省(けいせい)にして飾らざれば、則ち見て以て劌(けい)にして弁ならずと為さん。激急親近(げききゆうしんきん)にして人情を探知(たんち)すれば、則ち見て以て譖(しん、僭)にして讓らずと為さん。閎大(こうだい)広博にして妙遠測(はか)られざれば、則ち見て以て夸(こ、誇)にして用無しと為さん。家計小談して具数を以て言へば、則ち見て以て陋(ろう)と為さん。言いて世(よ、俗)に近く、辞(ことば)して悖逆(はいぎやく)せざれば、則ち見て以て生を貪(むさぼ)りて上(かみ)に諛(へつら)うと為さん。言いて俗に遠ざかり、人間(じんかん)に詭躁(きそう)すれば、則ち見て以て誕(たん)と為さん。捷敏弁給(しようびんべんきゆう)にして文采(彩、ぶんさい)に繁(はん)なれば、則ち見て以て史と為さん。文学を殊釈(しゆせき)して質信を以て言えば、則ち見て以て鄙(いや、卑)しと為さん。時に詩書を称し、往古に道(よ)り法(のつと)れば、則ち見て以て誦(しよう)と為さん。此(こ)れ臣非(ひ)の言うを難(はばか)りて重く患(うれ)うる所以なり。

(前段語註)
 1. 順比滑沢──順は従順、比は親愛、滑は美、沢は潤の意。相手の心に従ったなめらかな説き方。 2. 洋洋纚纚然──広がりつづくありさま。 3. 敦祗恭厚──敦は手厚くねんごろ、祗は敬の意。恭厚も同意。 4. 劌──于省吾いう、昧の意と。暗愚のこと。 5. 妙遠──梁啓雄は妙を秒(びょう)と読む。秒はこずえの意。 6. 詭躁──変わった珍しいことでやかましく説きたてる。 7. 殊釈──殊は絶・別、釈は棄の意。

 後段.
 故に度量(どりよう)は正しと雖(いえど)も、未だ必ずしも聴(き)かれず、義理は全(まつた)しと雖も、未だ必ずしも用いられず。大王、若(も)し此(こ)れを以て信ぜざれば、則ち小は以て毀訾誹謗(きしひぼう)と為(な)し、大は患禍(かんか)災害ありて死亡其の身に及ばん。故に子胥(ししょ)は善く謀(はか)りしも而(しか)も呉(ご)はこれを戮(りく)し、仲尼(ちゆうじ)は善く説きしも而も匡(きよう)はこれを囲(かこ)み、管夷吾(かんいご)は実に賢なりしも而も魯(ろ)はこれを囚(とら)う。故に此の三大夫(たいふ)は、豈(あ)に賢ならざらんや。而(すなは、乃)ち三君の明ならざるなり。上古に有湯(ゆうとう)は至聖(しせい)なり、伊尹(いいん)は至智なり。夫(そ)れ至智の至聖に説くも、然(しか)も且(な)お七十説にして受けられず。身(み)ずから鼎俎(ていそ)を執(と)りて庖宰(ほうさい)と為(な)り、昵近(じつきん)習親して、而(しか)して湯(とう)(すなわ)ち僅(わず)かに其の賢を知りてこれを用う。故に曰わく、至智を以て至聖に説くすら、未だ必ずしも至りて受けられず、伊尹の湯に説くは是(こ)れなり。智を以て愚に説けば、必ず聴かれず、文王の紂(ちゆう)に説くは是れなりと。

(後段語註 前半)
 1. 度量──法則のこと。もと長さの尺度とかさの枡目(ますめ)。 2. 子胥は……戮し──伍子胥のこと。春秋時代の楚の人。名は員(うん)。呉王に仕えて楚を破り、父と兄との仇を討ったが、のち讒言(ざんげん)されて死を命じられた(『史記』伍子胥伝)。 3. 仲尼は……囲み──孔子のあざな。諸国を遊説したが、匡の地で囲まれて危険なめにあった(『論語』子罕篇)。 4. 管夷吾は……囚う──管仲のこと。春秋時代の斉(せい)の名宰相。夷吾はその名。桓公を覇者(はしゃ)にならせたが、もと斉の内乱では桓公と戦い、魯の国で捕虜となった(『史記』管仲列伝)。 5. 有湯・伊尹──殷王朝の創始者の湯王。有は接頭語。伊尹は湯王に仕えた名宰相。 6. 鼎俎──物を煮る三本足のかなえとまな板。料理の道具をさす。 7. 文王──周の武王の父。殷の紂のため晩年羑里(ゆうり)に捕えられた。

 故に文王、紂(ちゆう)に説きて、紂はこれを囚(とら)え、翼侯(よくこう)は炙(あぶ)られ、鬼侯(きこう)は腊(せき)とされ、比干(ひかん)は心(しん)を剖(さ)かれ、梅伯(ばいはく)は醢(かい)とされ、夷吾(いご)は束縛(そくばく)され、而して曹羈(そうき)は陳(ちん)に奔(はし)り、伯里子は道に乞(こ)い、傅説(ふえつ)は轉鬻(てんいく)し、孫子(そんし)は魏(ぎ)に臏腳(ひんきやく)せられ、呉起(ごき)は泣(なみだ)を岸門(がんもん)に収めて西河(せいか)の秦と為(な)るを痛み、卒(つい)に楚(そ)に枝解(しかい)せらる。公叔痤(こうしゆくざ)は国器を言いて反(かえ)つて悖(もと)ると為(せ)られ、公孫鞅(こうそんおう)は秦に奔(はし)る。関竜逢(かんりゆうほう)は斬(き)られ、萇宏(ちようこう)は分胣(ぶんち)され、尹子(いんし)は棘(きょく)に穽(せい)され、司馬子期(しばしき)は死して江(こう)に浮かべられ、田明(でんめい)は辜射(こしや)され、宓子賤(ふくしせん)と西門豹(せいもんひよう)は闘(たたか)わずして人の手に死し、董安于(とうあんう)は死して市に陳(つら)ねられ、宰予(さいよ)は田常(でんじよう)に免(まぬが)れず、范雎(はんしよ)は脅(きよう)を魏に折らる。
 此の十数人の者は、皆な世(よ)の仁賢忠良にして、道術有るの士なり。不幸にして悖乱闇惑(はいらんあんわく)の主に遇(あ)いて死せり。然らば則ち賢聖なりと雖(いえど)も、死亡を逃(のが)れ戮辱(りくじよく)を避(さ)くること能(あた)わざる者は、何ぞや。則ち愚者には説き難(がた)ければなり。故に君子は言うを難(はばか)るなり。且(か)つ至言(しげん)は耳に忤(さから)いて心に倒(とう)す。賢聖に非ざれば能く聴くこと莫(な)し。願わくは大王これを熟察(じゆくさつ)せよ。

(後段語註 後半)
 1. 翼侯──『史記』殷本紀の鄂(がく)侯に当たる。紂の諸侯。 2. 鬼侯──『史記』の九侯に当たる。 3. 比干は心を剖かれ──、殷の一族。王子比干とも言われる。紂を諫め、聖人の心臓にあるという七つの穴を見るために胸をひきさかれた。 4. 伯里子──百里奚のこと。春秋時代、秦の穆公に仕えて覇者とならせた。五枚の羊の皮でわが身を売り、牛飼いになって穆公に近づいたという(『孟子』)。 5. 傅説──殷の武丁に抜擢され、土木工事の奴隷から三公となった(『史記』)。 6. 孫子──戦国時代の斉の軍師孫臏のこと。魏の将軍龐涓(ほうけん)に讒言されて足の筋を切られ、のち魏軍を破って復讐した(『史記』)。 7. 呉起──『呉子』の著者とされる紀元前四〇〇年ごろの軍師。楚に仕え、旧貴族の反発で処刑された(和氏篇二四九ページ参照)。 8. 西河──黄河の西側で今の陝西省東南部の地。呉起は魏のためにそこを守っていたが讒言でよび戻され、途中岸門(山西省河津県南)で西河を奪われることを嘆いた(『呂氏春秋』長見篇)。 9. 公叔痤は……奔る──魏の大夫。魏の恵王に公孫鞅(商鞅)を推薦したが聞きいれられず、のち鞅は出奔して秦に仕えた(和氏篇二五〇ページ商君の注を参照)。 10. 関竜逢は斬られ──豢竜とも書く。夏王朝の暴君の桀(けつ)に仕え、酒池を作ったのを諫めて殺された(『韓詩外伝』巻四)。 11. 萇宏は分胣され──周の霊王から敬王の大夫。魯の哀公三年、讒言により周人に殺された(『左氏伝』)。 12. 尹子──不詳。 13. 司馬子期──楚の公子の結のこと。大司馬の官に就き、あざなは子期。白公の内乱で殺された(『左氏伝』哀公十六年)。 14. 田明は辜射され──不詳。辜射は辜磔と通用。磔の刑。 15. 宓子賤と西門豹──宓は孔子の弟子、名は不斉(ふせい)。西門は魏の文侯の臣で鄴(ぎょう)の長官。殺された事件は不明。 16. 董安于は……陳ねられ──安于は閼于とも書かれる。晋の趙鞅の臣。知氏から脅された趙氏のために進んで自殺し、趙氏はその屍体を市場にさらして知氏の圧迫を解いた(『左氏伝』定公十四年)。 17. 宰予は……免れず──孔子の弟子。田常は田成ともいい、また陳恒ともいう。斉の簡公を殺して権力を奪った(前四八一年)。宰予はそれに関係して田常に殺された(『史記』仲尼弟子列伝)。ただし、異伝では宰予でなく闞止(かんし)とされている(『左氏伝』哀公十四年)。 18. 范雎は……折らる──秦の昭襄王に仕えて宰相となった応侯のこと。魏に仕えたとき、疑われて魏斉の舎人になぐられ、肋骨を折られ歯をくだかれた(『史記』)。 19. 此の十数人──上記の実数は二十二名である。太田方は数十人と改める。

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