『馬陵の説難』
解題

 戦国中期の馬陵の戦いを題材とした作品の紹介2ページ目です。
 戦いの地へ赴く魏太子に百戦百勝の術と称して身の危険を悟らせようとする客、しかし固い信頼を得られず、その親身な助言でも太子の可哀相な運命を変えられなかった『馬陵の説難』。
 原作は神業の名文です。
 さて考えた挙句に馬陵の説難というへんな題名になってしまいましたが、説難とは『韓非子』説難篇のつもりで、それは知る人ぞ知る古代の名高い論文です。
 この外黄徐子の一編は『韓非子』説難篇の主題を馬陵の戦いという舞台に持ち込んでみた作品なのだろうと解釈しました。
 とはいうものの、この作者が『韓非子』の代表作に技癢を感じるはずはありません。両者は成立順序が逆で、そして孫引きです。
 『韓非子』には説難篇と論題を同じくする難言篇も収録されています。
 通説では説難篇こそ韓非子本人の自著で、難言篇のほうは後の模倣作品だとされてきたようです。
 なにしろ説難篇は西紀前100年ころ、前漢時代のほぼ中間点に位置する『史記』が高く評価する名作でした。それだけのせいで説難篇の高い完成度は韓非自作品の基準として鑑定士たちに認知されてきたのです。
 しかし難言篇のほうの終わり近くに「愚者難說也」という結論があります。
 説難篇はこの結論を主題とはしていませんが、書き出しの「凡說之難 非吾知之 有以說之之難也」という言い回しは上の結論に技癢を感じた証拠かもしれません。
 なぜなら説難篇の主張を要約してみると、言説弁論という活動の主導権は聞き手側にあるのだから聞き手のことをよく考えねばならないと述べるのですが、それは必ずしも「説くことの難所はどの点にあるか」という用語で言い回さなくてもいいことです。
 ちなみに難言篇の書き出しは「臣非非難言也 所以難言者」となっています。
 その難言篇全体は論理と実例の二段構成です。上に引いた書き出しから論理の段につながって、どう述べても悪く受け止められる恐れがあることをつらつら論じます。
 書き出しの臣非、この非は韓非の名前、臣は謙譲です。次に二つ重ねられる難言、この難は無理にやまとことばに押し込めると間違いのもとになるので漢字のまま頭に入れておきます。
 書き出しの文意はわたくし韓非が話すことにてこずっているのではなく以下しかじかの理由で言うに言えないのだというものです。そして理由が述べ立てられます。
 『史記』韓非列伝によれば伝説の韓非は吃音障害だったとされることから、上の臣非は難言に非ずはその言い伝えを意識したシャレなのでしょう。
 意外に真相はこの難言篇の書き出しから韓非吃音疑惑が生じたのかもしれませんが。
 また、この書き出しは早くも結論から想像されるオチのための布石になっています。
 難言篇の記述様式は一見すると説難篇と同じく論述だけで終始する純粋な論文形式、あるいは秦始皇帝に奉呈される書簡形式なのですが、よく考えると論述の中に『戦国策』諸編の叙述文のような状況描写が盛り込まれているのです。
 つまり記述様式としても『戦国策』と『韓非子』論文諸篇の中間に位置すると言えるでしょう。
 書き出しからつながる前半の論理部分は「此臣非之所以難言而重患也」と結ばれます。言うに言えないうえに患を重ねるゆゑんなり。患は心の上に串刺し、実際に身体や財布にとって痛い憂患です。
 ここから災難に見舞われた過去の賢人たちの実例がつらつら述べ立てられる後半になります。
 原文では十数件の実例としていますが、その中に「公叔痤言國器 反為悖 公孫鞅奔秦」という例示があり、これは『史記』商君列伝の枕になっている伝説です。
 魏の国の功臣であり宿将であり大臣を務めていた公叔痤が死の病いに倒れたとき、梁恵王から後任候補を訊ねられ、商鞅を推挙したのですが、ついにその意見は採り上げられません。
 上に引いた文中の「悖」という一字が問題です。これは無名弱冠の商鞅ごときを推薦する死に際の病人に対する梁恵王の感想で、タワケやボケという意味の下品な形容です。
 実はこの伝説は『戦国策』に原典があり、梁恵王の感想である「悖」という一字もその原典で用いられていました。
 もとより上の商鞅伝説は『戦国策』原典の創作ではなくすでに世に広く流布していたという可能性も大いにあり得ますが、それにしても「悖」という流動的な形容の語まで巷間の伝承から写すはずがありません、難言篇と商君列伝が揃いも揃って『戦国策』から引用したことは明らかです。
 ちなみに難言篇の結びは「願大王熟察之也」。大王は途中でも一度出ていますが韓非の大王ですから秦始皇帝になる秦王。熟はつらつらでも熟察でもいいですが戦国諸侯の好んだ釜ゆでの刑を暗示します。
 これを冒頭から通して読むと、わたくし韓非は話すことにてこずっているのではない、愚者にはへたに説けないものだから言うに言えないだけ、大王これをよく察したまえ。
 非情冷酷で鳴らすあの大王にこんな上奏文を献じれば冗談で済まされるはずがありません。
 つまり『韓非子』難言篇という文芸作品は表裏のある二重構造で、表の文面では、道理をわきまえ事理に通じる賢人でもうまく言うことは難しい、まして相手がばか君主ではなおさら難しい、そう説いている論文の体裁を装いつつ、実はその裏では、秦始皇帝に捕らわれて獄死したとされる韓非伝説の悲劇のいきさつを活写したものなのでしょう。
 さらに付け加えれば、これこの反抗的な上奏文こそ韓非の名を例の十数件の末尾に刻むことになった問題の論文であると言いたいのかもしれません。
 さて『韓非子』難言篇の作家がおそらく『戦国策』諸編の読者であったことから、外黄徐子の一編も読み、そして技癢を感じた可能性は絶大です。
 難言篇では例のうまく言えず不幸になった十数件の賢人たちを「皆世之仁賢忠良有道術之士也」と称します。道術有るの士の道術は道の術ではなく道と術、どちらも道路の意です、道はまっすぐな道路で術はまがりくねって寄り道する道路。
 十数の賢人を列挙する当初に「度量雖正 未必聽也。義理雖全 未必用也」という句が置かれています。道術有るの士の道術とはこれの短縮形です。度量正しが道、ものがわかっているの意、義理全しが術、万事の意義や理非に通じているの意になります。
 『韓非子』で術といえば、戦国期、韓の国で活躍したという申不害の思想を受け継いだものと理解する習いになっていますが、それは『韓非子』の著者を伝説の韓非とする場合です。
 難言篇に出てくる道術の語は特定の思想に固有のものではなく、すでに常用化している感があります。それでも強いて典拠を探せばこの術の語は外黄徐子の一編にある「臣に百戦百勝之術有り」の超絶表現から取られたものでしょう。
 つまり『韓非子』難言篇の作家も外黄徐子の一編を言うは難しの説話と理解したことになります。そしてもちろん技癢を感じたことにもなりそうです。
 しかしその推測をすこし巻き戻すと、難言篇が『戦国策』諸編の読者によって書かれたからといって、この外黄徐子の一編まで同様に『韓非子』難言篇より前からあったとは決まりません。
 なにしろ『戦国策』約500編それぞれの来歴は不明であり、難言篇より後れて書かれた作品もあるかもしれないのです。
 この外黄徐子の一編を作品の古さについてすこし掘り下げてみると、『戦国策』の常道は奇想奇策の論説が奏功するというものであり、それに対してこの一編は型破りになっています。
 型破りになった理由は魏太子の優柔不断です。他の多くの作品では主役となる論説がその愚かな優柔不断によって奏功しなくなり、この一編の主眼はむしろ論説ではなくそれが成就しなかった理由のほうに向けられているようです。
 論説ではなく聞き手のほうに目が向けられる、そうした観点が難言篇や説難篇と共通します。
 ただしこの一編は説難篇のように聞き手を詳しく研究することもなく、また難言篇のように聞き手の個性に依存することもありません。
 ここに登場する魏太子は聞き手というものの代名詞でしかなく、戦国遊説家に対する聞き役だった諸侯の象徴です。
 馬陵の戦いの後から百年ほど続いてしまう不毛な遊説家時代の膠着状態は一面的には諸侯が舌先三寸の縦横策に翻弄されたために現出します。
 また『戦国策』に見られる多くの論説文芸はその遊説家時代に仮託して奇想奇策の説を競いました。
 この外黄徐子の一編はそれらを風刺することが主題です。
 一編の構成を見ると、もはや論説がセリフ程度の重要度に引き下げられ、効果的に機能する叙述文とセリフ文によって物語が展開されていますが、後世のまさしく小説のようなこうした発達的な作風はこの一編の主題によって要求されたものであり、特に先行作品が必要だったわけではないでしょう。
 もちろんからかう対象となる先行作品はあったのですから、『戦国策』のなかでは比較的おそく書かれたはずですが、『韓非子』の二篇から影響を受ける必要はありません。
 一方、難言篇は韓非の職務放棄を秦始皇帝の危険な個性から説明するという発想の作品ですが、これは外黄徐子の一編から影響を受けているとしてもおかしくないでしょう。
 つまりは難言篇のほうが技癢を感じたようです。

Apr 01, 2018 - サイト管理人

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