『馬陵の説難』
現代日本語訳

 魏太子おん自らが総大将となり、魏の軍勢は宋国の外黄を通り過ぎようとしていた。
 このあと、残酷な落とし穴が大きな口を開けて待ちかまえる馬陵へ向かう。しかし彼らはそんなことになるとはゆめ思わず、むしろ大きな軍容をたのんで不敵に力強い行進でさえあった。

Sengokusaku_Sei-Iou 2

 その大軍勢を追って外黄徐子と名乗る客が現れた。魏太子と面談し、ことばを選びながら申し出た。「わたくしは百戦して百勝する術を心得ておる者でございます。いかがでしょうか、百戦百勝の術でございます、少しわたくしに付き合いませんか?」
 太子は眼を輝かせ、身を乗り出した。「そいつは素晴らしい、ぜひお聞かせ願いたい」
 しかし太子が色めき立っているのに、客はこころなしか反対に気が引けた様子を窺わせた。もとより笑顔ではありながら、それが引きつっているのである。
 とはいえ聞かせてほしいと言われたからには、聞かせるだけでも聞かせてみるしかない。「是が非でも素晴らしいご分別で術者のわたくしにあやかるように願います。さてこのたび太子さまおん自らお出ましになり斉の国へ向かわれます戦いの行く末を占ってみますと、仮にこれ以上なく思う存分に敵を打ちのめしますならば大きく敵地が得られることもあるかもしれませんが、あのような石ころばかりの荒れた小国からどれほど土地を譲り受けたとしてもそれが何だというのでしょうか、それをお金に換算してみてもやがて大国の王の財布が使えるようになることから見ればほんのお小遣いにも物足りず、また大国の王となられましたならそれ以上のどの程度の名誉でございましょうか。そんな放って置けばいいやせ犬一匹をわざわざ遠くまで太子さまおん自ら捕まえに行き、もし間違って反対に敵の餌食になってしまったならどうでしょうか、太子さまご自身ばかりかご子孫の末の末まで魏王になられることが叶いません。得るに少なく失うに甚大。わたくしの百戦して百勝する術はざっとこうでございます」
 「おお、あい分かった、いかにも。目が見えるようになった。必ずやあなたの意見のとおりこのまま魏に帰ることにしよう」
 太子はすんなりと聞き入れた。それなのに客のほうは望みが絶たれたかのようにがっくりとうなだれ、悲痛に頭を振っていた。
 「まったく人を説得するとは難しいものだ。いま聞いた意見に従うといったって、この軽薄な太子をいいことにこの戦いで荒稼ぎしたがっている連中が取り巻いているではないか、とても穏便に帰れるものではない。だからわたしは素晴らしい術がある、あやかれと言っているのに。まったく難しい。こうしてわざわざ訪ねたわけをすこしは考えないものだろうか」客はそうつぶやくと、最期の別れもなく大軍勢に背を向けた。
 その客の背中のほうでは太子が死の淵から助かってきたような嬉々とした軽い足取りで不敵な軍容のなかに戻り、ひらりと戦車に飛び乗って、やっぱり国に帰ることにしたと進路変更を表明していた。
 たちまちそれを震源としてどよめきがひろがり、そして太子の車の手綱を取る御者が真っ先に反対した。「将軍! どうしちまったんですか。将たる者が国を出てなにもせずにUターンするなんて、負けて逃げ帰るも同然なんですよ。いいんですか、戦いもしないで勝手に負けて逃げ帰るんですよ?」
 「...あ、うん、...そうかなあ」
 「そうです。このまま帰るも戦ってから逃げ帰るも一緒、だったら試しにクジを引いてみてから帰るほうが利口に決まってる」
 「あっ、あい分かった、いかにも」
 「そうですよ。さあさっさと任務を果たしに行きましょう」
 彼らは突き進んだ。そして斉軍と戦って太子は死んだ。その得られなかったものは莫大である。

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