『馬陵の戦い 1』
解題

 古代中国紀元前の一定時期200年間を言う戦国時代、その戦国期が序盤戦から中盤戦の様相へ移行したことを劇的に象徴する桂陵の戦いと馬陵の戦い。
 このページでは桂陵の戦いのリターンマッチといわれる馬陵の戦いが題材となった二編を取り上げました。
 一本目は魏国側の総大将だったとされる魏太子申の陰に埋もれていた他の公子たちを奇貨(掘出し物)と見る論が輪舞調で流れるように説かれる「ここで泣け」。
 二本目は両戦役後に斉楚間で争った徐州の役、実は馬陵に散った太子の復讐のため魏によってそれは仕組まれていたとする推測が掛け算で答案される「ご破算で徐州の役」。
 おのおのに音楽的であり数学的である味付けが持ち味になっているとあれほど言って聞かせたのに、自分のことながらこのページの現代日本語訳はどうしたことでしょうか。
 さて、二編の背景にある馬陵の戦いは戦国時代がちょうど中間点に差し掛かるあたり、紀元前300年代なかごろに起こったようです。
 桂陵の戦いと同じ梁恵王と斉威王の対決で、冒頭にも書いたように、その報復戦という一面があったとされます。
 囲魏救趙という戦法で知られる桂陵の戦いと較べてなにとなく盛り上がりに欠ける馬陵の戦いですが、その真相に迫る資料としては『戦国策』と『孟子』そして『史記』があり、けっして知る術なく分厚いベールに覆われてはいません。
 それらのうち異端の『史記』を除いてそれ以前に書かれた資料では一致する見解が少なからずあります。
 戦いの発端に関しては魏が桂陵の汚名返上のため斉へ侵攻したと読み取れ、また太子が魏軍の大将だった点はどの資料も熱心に書きたてるところで疑いを容れようともしせん。
 合戦の様子を伝える記述は一つとしてなく、ただ魏の敗北を伝える結果報告だけがこれも必ず一致しています。
 もっともどの文献も戦いと同時代のものではありません。あくまで前漢初頭の前200年前後以降の一定時点から百数十年前にあったとされる魏斉の交戦を遠望して書いたにすぎません。
 要するに前漢初期ころの印象として馬陵の戦いとは魏が太子を失って敗れただけのむだな挙兵だったのでしょう。
 二編のうちの一本目は冒頭からほんの短文で状況説明するだけですが、もう魏惠王起境內衆という何文字かに非難の意がありありと窺えます。
 起境內衆がほんとうは何を言わんとしたのか知りませんが、この衆の字からはとても日ごろよく調練された精鋭軍団を想像する気にはなりません。
 国中からむりくり人数をかき集めて強引に送り出した感じがします。その直後に太子を大将にしたと続くと、人材にもそこまで事欠いていたのかと読むしかありません。
 しかしそれは作家のトリックで、後を読み進むと、梁恵王はなかなか楽勝気分だったとも描かれています。そこでこの冒頭からの状況説明は当時に見れば十分過ぎる大軍だったが後に思えば烏合の衆だったと読めるかもしれません。
 二編のうちの二本目は馬陵の敗戦後が舞台に設定されました。張儀と並ぶ大物説客だったとされる公孫衍が偽同盟の外交計略を献策します。『戦国策』の王道を行くようないわゆる縦横ものです。
 この作品ではもはや状況説明が徐州之役という言い切りの一名称だけになり、さっそく公孫衍が献策を始めます。
 しかし実は公孫衍が縦横策を耳打ちするということこそ含意豊富な状況暗示になっているのかもしれません。
 なにしろ梁恵王と斉威王のそもそもの馴れそめである桂陵の戦いまで巻き戻してみると、当初は魏軍が趙へ攻め込み、邯鄲の都を囲んでいたところ、東から斉威王に横槍を入れられたのです。
 それまでの梁恵王は戦国七雄の一諸侯ではなく、彼から見れば天下には万乗の魏と十か二十の小国群しかありませんでした。邯鄲の城をかんたんに抜けるのですから流しの説客の口車には乗りません。
 ところが桂陵馬陵後になると、流しの大物である公孫衍がそんな梁恵王に縦横をかたり掛けるのです。
 魏国一強の勢力図が崩れ、例の戦国七雄体制の出現、そして横槍で突かれたくない諸侯たちは慎重になり、戦国期中盤戦は膠着します。
 それは遊説家のためにお膳立てされたような状況でした。
 そこで犀首が梁王に謂って曰くというだけで時代状況を端的に表現しているのかもしれません。

Feb 26, 2018 - サイト管理人

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