『八尺有余のおやぢ』
前段

 『鄒忌脩八尺有餘』前段
 1.
 鄒忌脩八尺有餘身體昳麗朝服衣冠 窺鏡 謂其妻曰 我孰與城北徐公美 其妻曰 君美甚 徐公何能及君也
 「鄒忌、八尺有余(はつせきいうよ)の身体昳麗(てつれい)したるを朝服(てうふく)の衣冠(いくわん)に脩(かざ)り、鏡を窺(うかが)ひ、その妻(さい)に謂ひて曰く、我れ、城北の徐公の美に孰与(いづれ)ぞ。その妻曰く、君の美は甚(はなは)だし、徐公何(なん)ぞ能(よ)く君に及ばんや。」
 2.
 城北徐公 齊國之美麗者也 忌不自信 而復問其妾曰 吾孰與徐公美 妾曰 徐公何能及君也
 「城北の徐公、斉国の美麗なる者なり。忌、自(みづか)ら信ぜずして、復(ま)たその妾(せふ)に問ひて曰く、吾れ、徐公の美に孰與ぞ。妾曰く、徐公何ぞ能く君に及ばんや。」
 3.
 旦日 客從外來 與坐談 問之客曰 吾與徐公孰美 客曰 徐公不若君之美也
 「旦日(たんじつ)、客(かく)、外従(よ)り来(きた)る。坐談を与(とも)にし、之(これ)を客に問ひて曰く、吾れと徐公と孰(いづ)れか美なる。客曰く、徐公は君の美に若(し)かざるなり。」
 4.
 明日 徐公來 孰視之 自以為不如 窺鏡而自視 又弗如遠甚
 「明日(めいじつ)、徐公来る。孰(とく)と之(これ)を視(み)、自ら以為(おもへ)らく、如かず。鏡を窺ひて自ら視、又(また)(し)かざるの遠く甚だし。」
 5.
 暮 寢而思之曰 吾妻之美我者 私我也 妾之美我者 畏我也 客之美我者 欲有求於我也
 「暮(くれ)、寢(い)ねながらに之(これ)を思ひて曰く、吾が妻の我を美とするは我を私(わたくし)するなり、妾の我を美とするは我を畏(おそ)れるなり、客の我を美とするは我に求めらるる有るを欲するなり。」


 1.
 それ斉の国は後世に名君の誉れが高い斉威王の御代、その斉威王に徳を見込まれて鄒忌が宰相になっていた。そしてこの鄒忌はまた史上初めて古記録に現れるおやじギャグを思い付いてしまった人物でもある。
 悲劇は参朝予定日前日のあわただしい朝の身繕いの場面で起こってしまった。もっとも、むかしの身分あるおじ様は自分で着替えもできないでくのぼうなので、鄒忌当人はおっとりじっとして、女たちがあわただしいのである。
 いかにも威風堂々の八尺余りという上背ながらいささか寄る年波でお肉が豊かにゆるゆる、それを朝服礼装の衣冠でビシッと引き締められて、ちょっと斜めに鏡をのぞきこむと、つい思い付いてしまった、そして帯を締めてくれた正妻に言ってしまった、「私もまだいけるな、城北の徐公とどっちかな」しかも妻を置き去りに自分だけが陽気に笑いだす始末。ところが妻は思いがけず、恋する女の憧れる顔つきになってひたむきに主人を見つめ、「あなたはたいへんな美男よ、徐公だってあなたには及びもつかないわ」と言い出した。
 2.
 念のために城北徐公は斉国きっての二枚目である、それで美男の代名詞になっている。
 色つや下り坂の鄒忌(朝服すがた)はキツネにつままれた気分だったが、なにしろうぬぼれは中年おやじの宿痾、この人物の名誉のために言えばほんのちょっとだけ気になってしまい、同じことを妾にも問いただした、「僕は城北の徐公とどっちだろうか」すると妾も言うのだった、「徐公だって旦那様には及びもつきません」鄒忌は半信半疑になってしまった。
 3.
 その日、朝から外来客があり、用向きはおおよそ見当が付いたので、一席設けて対坐した。しかしなかなか本題を言い出さず、とりとめのないよもやま話に終始するから、例のキツネとタヌキに確かめたことをこの客にもちょっと訊いてみた、「わたしと城北の徐公ではどっちが美男だろうか」すると外からの客も口をそろえるのだった、「徐公はあなた様の美男にかないません」三人が三人とも軍配を上げるので、もはや確定である、鄒忌の胸のうちで祝福の鐘が高らかに鳴り響いてしまった。
 4.
 明るい日中のうち、百聞より一の実見、当の徐公が来た。天のお導きではなくすっかりとち狂ってしまった権力者の招待である。さて鄒忌はライバル心を煌々と燃やし、斉国随一の呼び声高い容姿に目を光らせると、たちまちその後背きらめく美形にめまいを起こし、心につぶやいた、(負けた...)、例のキツネとタヌキとムジナによって築かれた自信が音をともなって崩れる。よろよろと動揺しながら、斜めに鏡をのぞきこんで、また心につぶやいた、(聞くと見るとで大違い、こっちが遠く及びもつかないぞ)、口惜しい気がしないほど比較にならなかった。
 5.
 日が暮れて、鄒忌はせっかく参朝のために支度された正装が着崩れないよう神妙に寝床に臥して、この日の茶番を振り返った、「はてさて、わが妻は我を独占する者なればこそ、わが妾は我に恐縮する者なればこそ、わが客は我に取入りたい者なればこそ、みな口々に私を担いだのだな」

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