『田斉威王』
解題

 田斉威王と題して、斉策から二本まとめて訳しました。
 一本目は敵方に回った将軍を皆が裏切り者だと決め付ける中、王だけが自分で抜擢した臣下をあくまで信じた「将軍章子は主君孝行」。
 二本目は家庭の主の口から滑り出てしまった一つのおやぢギャグが斉国の覇権に結び付くダイナミックな展開の「八尺有余のおやぢ」。
 ここで勝手に付けたタイトル以外はもうとっくに日本で知られてきた作品ですが、特に二本目の冒頭は従来誤解されてきたため、この攻略が漢籍研究の歴史においてあながち無意味でもなかったように思います。
 ちなみに付け加えると、《もう少し訓み下し》の最後に引用した『呉子』図国の「戦い必勝の道」の段の呉起の応対文も、従来正しく理解されていません。この段は呉起がばか正直に必勝戦略を説いているのではなく、考えが安直な怠けた主君を皮肉で諫めているのです。
 さて二本のどちらでも物のわかる大度な役柄を振り当てられた斉威王はこの他にもたくさんの逸話で修飾され、たいてい懐の広い傑物のように描かれます。
 が、しかしそのなかで紛れもない史実といえば威王という諡号だけです。他はすべて虚実不明の伝説として、疑ってかかるほうがいいかもしれません。
 現代日本語訳の初めに背景説明したとおり、斉威王のころの斉国は生まれたばかりでした。
 斉という国そのものは周代初めからあり、例の太公望による創始といわれます。春秋五覇時代、その先駆となる覇者も輩出しました。
 のち、しだいに傾き、臣下の田氏に乗っ取られ、田斉と呼び分けられる新しい国として再出発します。威王は田斉の4代目とされるようです。
 そしてこの時代、田斉はめざましい躍進を遂げます。
 参考のために併載した『史記』の世家によると、威王の26年、魏の国が趙国の邯鄲の都を包囲。趙は斉威王に救援要請。しかし田斉は両虎相争う間に主戦力の出払っている魏本国の補給源を急襲し、漁夫の利を図りました。
 みごと図に当たり、趙国に勝った魏軍も疲弊、斉はそこを突いて最終的な勝利者となり、于是斉最強于諸侯 自称為王 以令天下 と『史記』ではいわれています。
 これが斉威王の最大にして唯一の対外業績であり、つまり彼は当時の中国世界の大局で見ればぽっと出の有名人でした。
 成功者の知られざる過去はことさらに興味を惹き、さかんに取り沙汰されます。斉威王が数多くの逸話で飾られる理由はそのためなのでしょう。
 ときに『史記』では諸侯に最強と言われますが、これは筆の勢いの褒め過ぎかもしれません。
 斉威王の次の斉宣王も、その次の斉湣王も、それぞれがんばって戦った結果、斉は湣王の時代、西方の秦国とともに天下の覇権を二分しています。それが田斉の最高到達点でした。
 そこから逆算すると斉威王時代の諸侯に最強のほどが知られます。
 また他方、斉威王は文化行政の面でも開明君主として有名です。斉都臨淄のいわゆる稷下に世の学者のための街を営み、戦国思想界の発展を牽引したとされます。
 ただし実際そうだったとしても、なにしろ学問のことですから、たちまち威王の時代に成果が上がったとも思えません。
 さらに斉威王の時代、天下の学者といえば、商鞅でなければ、名家と称された一派の出世頭、『荘子』天下篇でも特筆される恵施でしたが、この思想家は魏国の宰相に修まっていました。商鞅のほうも秦へ渡る前は魏国にいたとされます。
 考えてもみれば、いわゆる桂陵馬陵の戦いで当時最強の魏国に一泡吹かせ、天下に一躍威名が聞こえたとはいえ、それまでは臣下が下剋上したような怪しい国です。いくら学者を厚遇したにしろ、賢人のほうは君子危うきに近寄らずとなります。
 そこで斉威王の宰相は鄒忌、威王の琴の趣味に取り入ったとされますから、怪僧ラスプーチンや道鏡の類いでしょうか。また、最も知られる能弁家には淳于髡、『史記』滑稽列伝の筆頭です。
 つまり学者を高待遇した稷下の学園とは人材が集まらない田斉には当然の割高なコストだったのかもしれません。
 そうした斉威王時代の貧弱な人材面において、後世、西洋世界にも名が知られる孫子は異彩を放ちます。
 『史記』孫子列伝によれば、田斉威王はなんの労もなく孫子のほうから来てもらったそうです。しかし『戦国策』中の関連小説を見ると、孫子はあくまで田忌の参謀だったように描かれています。
 あるいはこの伝説の兵法家は斉威王最大の業績である桂陵馬陵戦の奇跡的勝利を説明するために案出されたのかもしれません。
 孫子の実在性については特別にそのためのページを作っていますが、斉威王の陣営にこの伝説の兵法家が実在したか否かはともかくとして、斉威王自体が中国兵法の発展史における重要人物であることは古来の共通認識になっていたようです。
 ここで取り上げている二本目はそうした物騒な話題とはほど遠い世話物人情劇めいた情景から始まりますが、結末の一文で『呉子』兵法をオチに用意していたことが明かされます。
 また一本目の章子将軍の話は始まりから合戦ですが、斉威王といえば兵法というあまりにも当たり前の予定調和をみごとに裏切るオチです。
 『史記』司馬穣苴列伝の終わりに次の記述が置かれています。
 至常曾孫和 因自立為齊威王 用兵行威 大放穰苴之法 而諸侯朝齊 齊威王使大夫追論古者司馬兵法而附穰苴於其中 因號曰司馬穰苴兵法 
 「(田)常の曾孫和に至り、因りて自ら立ち斉威王と為り、兵を用い威を行するに、大いに穣苴の法を放(倣、放出、放射)し、而して諸侯、斉に朝す。斉威王、大夫をして古者の司馬の兵法を追論せしめて穣苴を其の中に附さしむ。因りて号づけて司馬穣苴の兵法と曰ふ」
 内容の薄い穣苴列伝をわざわざ立てた理由はこの記事が書きたかったためかもしれません。
 司馬穣苴は伝説の兵法家として有名ですが、本来は田穣苴、田斉の祖なのだそうです。この記事は斉威王がその祖先の兵法を復興したと論じています。
 ところで記事にある古者司馬兵法を追論せしめたとは後に号して『司馬法』というところの兵法書を改訂編集させたという意味のようです。
 いにしえの司馬法、これこそ伝説の太公望直伝とされる兵法書であり、太公望呂尚が周王朝の大司馬官、つまり軍事長官だったことから司馬の兵法と呼ばれました。漢代以降になると法外な闇値で出回ったようです。もちろん全部まがい物。
 そこで誠実な研究者は太公望の兵法書と聞いただけでうんざりし、人前で口に出すことを憚りますが、しかし考えてもみれば、そもそも斉は太公望が封じられた国ですから、太公望の兵法を伝えていないほうがおかしな話になります。
 穣苴列伝の最後の記事にはあながち見過ごせないものがあるかもしれません。
 また斉国の地理的条件も見過ごせません。斉国は中原の先進国ではなく、西方辺境の秦国と同様、東方辺境の野蛮国です。
 東方の野蛮民族を表す東夷という言葉はもともと朝鮮人や日本人を指したのではなく、斉国のあたりに住んでいた異民族を言いました。
 単純な古代地図を見ると春秋戦国期の斉地は海に面していますが、実際には沿海地帯に異民族がこまごまと点在したようです。
 近隣の由緒正しい魯国に伝わる古い書物ではひっきりなしに斉国の野蛮ぶりが迷惑がられています。実の妹であるお姫様と禁忌の相姦をやらかすことも茶飯事だったそうです。
 そんな辺境の国が文化の面で中原の先進大国に太刀打ちできるはずもなく、頼るものは軍事力、そこで斉国創始以来の兵法が伝国の宝刀になります。
 斉威王はそれを自覚していた君主だったかどうか、しかし少なくともそうした斉国のお国柄を後世に気付かせる君主だったことは間違いありません。
 威王の後、この国は武威によって大国となり、そして武力の使い過ぎにより凋落していきます。

Jan 28, 2018 - サイト管理人

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