『魏武侯諸大夫と』
第1段

 「魏武侯與諸大夫浮於西河 稱曰 河山之險 豈不亦信固哉 王鍾侍坐曰 此晉國之所以強也 若善修之 則霸王之業具矣 吳起對曰 吾君之言 危國之道也 而子又附之 是重危也」
 魏の武侯、諸大夫と西河に浮び、称して曰く、河山(かさん)の険(けん)、豈(あ)に亦(また)信(まこと)に固からずや。王鍾、侍坐して曰く、此れ晋国の強き所以なり、若(も)し善(よ)く之を修めば、則ち霸王の業の具たらん。呉起対(こた)へて曰く、吾が君の言、国を危ふくするの道なるも、而(しか)も子又(また)之に附(ふ)す、是れ危ふきを重するなり。
 ─ 「魏の武侯」武侯は魏文侯(西紀前400年前後在位)の世継ぎ。武侯の在位は前395~や前387~など諸説あるが、没年は前371年か翌年が定説。古くは呉起の自著とされた兵法書『呉子』は呉起と魏武侯との対話篇。「西河に浮び」西河は黄河、魏国のあたりの黄河の流れを特に西河と言った、西河に船を浮かべ魏の武侯が諸大夫と連れだって遊覧した...という内容の省略表現。「稱する」は称える、魏の武侯は険阻な河山をすばらしく堅固だと称えた、その意味は後文の大夫たちの議論で明かされる。「王鍾、侍坐して」侍坐は侍る連坐。「此れ晋国の強き所以なり、若し善く之を修めば、則ち霸王の業の具たらん。」晋国は春秋時代の大国、春秋五覇時代からは覇国、戦国時代の趙魏韓の三国に割れた、この魏国はかつての覇国だった晋の都のあった中央域を継承しているため、晋国の強きゆゑんである河山はこの魏国の強きゆゑんでもある。「善く之れを修む」修むを脩むとする異本もあるが、それでも意味は修む、修むは塵を払って清める、善く之れを修むは修繕、晋国の次の住人である魏国が修繕して再利用する、あるいは脩むのほうであれば長いの意があり河山の悠久を想起させる、また修には修業という熟語があるので次句の「霸王の業」の業を引き出す。「霸王の業の具たらん」具は道具や工具など今も使う、また第2段最後の足の字に働いて具足、この王鍾の言は晋-脩-業-具という用語が有機的に連係している。「道」この場合は方途。「子又之に附す」子は人臣士大夫に対する尊称、又の字は累加。 ─


 (兵書『呉子』でも準主役を務める魏の武侯。あるとき陪臣の大夫一同と西黄河に船で遊び、大黄河と流域の山岳、守るに易く攻めるに難い天然の防御力を褒め称えた。「みなの者見たまえ、この地形の険しさ、まことに堅固なものよ」
 またしてもおそば近くの大夫王鍾が武侯の大はしゃぎに調子を合わせて語った。「いやまことに、これこそそのむかし我が晋国を強大にした原動力でしょうな、うまく活かせば大いに覇業王業の役に立つことでございましょう」
 一方、呉起は同調するどころか、苦り切った表情を王鍾へ向けた。「我れらが主君のお言葉は国を危険にさらす不見識だったというのに、あなたもそれに話を合わせてしまう、そんなことでは危険性がとても重大なものになります」

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