『(改訂)先づ隗』
後半

 『燕昭王收破燕』─後半

 昭王曰 寡人將誰朝而可
 郭隈先生曰 臣聞古之君人 有以千金求千里之馬者 三年不能得 涓人言於君曰 請求之 君遣之 三月得千里馬 馬已死 買其骨五百金 反以報君 君大怒曰 所求者生馬 安事死馬而捐五百金 涓人對曰 死馬且買之五百金 況生馬乎 天下必以王為能市馬 馬今至矣 於是不能朞年 千里之馬至者三
 今王誠欲致士 先從隈始 隈且見事 況賢於隈者乎 豈遠千里哉
 於是昭王為隈築宮而師之 樂毅自魏往 鄒衍自齊往 劇辛自趙往 士爭湊燕
 燕王弔死問生 與百姓同其甘苦 二十八年 燕國殷富 士卒樂佚輕戰
 於是遂以樂毅為上將軍 與秦楚三晉合謀以伐齊
 齊兵敗 閔王出走於外 燕兵獨追北入至臨淄 盡取齊寶 燒其宮室宗廟 齊城之不下者 唯獨莒 即墨

 昭王曰く、寡人、将(は)た誰にか朝(てう)して可(か)ならん。
 郭隗先生曰く、臣聞く、古の君人(くんじん)に、千金を以て千里の馬を求むる者なるも三年得る能(あた)はざること有り、涓人(けんじん)、君に言(い)ひて曰く、請(こ)ふ之を求めん、君之を遣(や)る、三月(さんげつ)に千里の馬を得(う)るも、馬已(すで)に死せり、其の骨を五百金に買(か)ひ、反(かへ)り以て君に報(ほう)ず、君大いに怒(いか)りて曰く、求むる所の者は生馬(せいば)なり、安(いづく)んぞ死馬を事(つか)ひて五百金を捐(す)てんや、涓人(けんじん)(こた)へて曰く、死馬すら且(か)つ之(これ)を五百金に買(か)ふ、況(いはん)や生馬をや、天下必ず王を能(よ)く馬を市(か)ふと以為(おも)はん、今に馬至(いた)らん、是(ここ)に於て朞年(きねん)なること能(あた)はざるに、千里の馬の至る者の三(さん)ありき、
 今、王、誠に士を致さんと欲せば、先づ隗従(よ)り始めよ、隗すら且つ事へらる、況や隗より賢なる者をや、豈に千里を遠しとせんや。
 是(ここ)に於(おい)て昭王、隗が為(ため)に宮を築(きづ)きて之(これ)を師とす。楽毅、魏より往(ゆ)き、鄒衍、斉より往き、劇辛、趙より往き、士、燕に争(あらそ)ひ湊(あつ)まる。
 燕王、死を弔ひ生を問(と)ひ、百姓(ひやくせい)と其(そ)の甘苦を同(とも)にすること二十八年、燕国殷富し、士卒は楽佚し戦ひを軽んず。
 是に於て遂(つひ)に楽毅を以て上将軍と為(な)し、秦、楚、三晋と謀(はかりごと)を合(あ)はせ以て斉を伐(う)つ。
 斉の兵敗れ,閔王、外に出走す。燕の兵、独り北(に)げ入(い)るを追(お)ひ臨淄に至り、尽(ことごと)く斉の宝を取り、その宮室宗廟を焼く。斉の城の下(くだ)らざる者、唯だ独り莒、即墨のみ。


 昭王は思案顔を曇らせた。「う~ん、しかし、いったいわたくしめはどこのどの賢人に学んだものでしょうか」
 昭王の困惑はごもっともだった、海老で鯛を釣ろうにも手始めの海老すら寄り付かない今の燕国である。ところが郭隗先生の表情を窺うと、むしろ説客の悪賢い面構えが一際濃く彫り込まれていた。「わたくしはこんな話を聞いております。古い世の君主であられた方なのですが、千金を払ってでも千里の馬を持ちたいとお思いになられたのです。ところが三年探させてみても手に入れられません。すると小間使いの者が名乗りをあげまして、自分が探してみせると申します。主君は行かせてみました。たったの三か月で本当に正真正銘千里の馬を見つけ出したのでございます。ただし、とっくにしかばねになっていた馬でした。小間使いはその骨を五百金で買い求め、主君にそのままをご報告いたしました。主君はもうカンカンです、生きた馬でなければ意味がない、死んだ馬に何の働きがあって五百金もの大金を払った──大金をドブに捨てるようなものではないか、これ見よがしに馬の骨をこんなご丁寧にくるみやがって──、当然そうこっぴどく叱り飛ばします。しかし小間使いはうそぶきました、そうです、いくら良馬と言ったって死んだものに五百金なんてべらぼうです、だったら生きていれば想像もつかないほどすごい値で買い取られているに決まっています、つまりは王さまが莫大な資金で馬を商うことは必ずや天下に知れわたります、そうなれば今にお目当ての馬も向こうからやって来ることでございましょう。そう小間使いが申し上げましたとおり、一年もしないうちに本当に千里の馬を持ち込んできた者が三件もあったそうでございます。
 さて王さま、本気で天下の人材を招きたいとお思いあられるなら、真っ先にこのお傍に見えます隗を手始めとなされませ。こんな名もない隗めでさえ師と仰がれるなんてべらぼうです、だったらこの隗より能のある者ともなれば想像もつかないほど丁重に迎えられるは必定、誰が遠路はるばる王さまのもとに参ることを苦労だと考えますでしょうか」
 こうして昭王はとにもかくにも隗めのために宮殿かと見紛うばかりの立派な館舎を設け、そしてその門下に学んでみたのだった。すると楽毅が魏の国から、鄒衍が斉から、劇辛が趙から飛んで燕に入り、天下の人材が燕国昭王のもとに殺到した。
 (燕の国の君王は国人が死んだと聞けばその葬儀に参じて弔い、まだ生きていると聞けばその近況を気に掛けて訪問し、28年ものあいだ、すべての国人と苦楽を分かち合う。いよいよ燕国は富み栄え、そして士卒は暮らし向きが楽になってお国のために戦う意欲を旺盛にした。
 満を持して、楽毅を総大将に任命し、秦、楚、三晋の合わせて五か国に根回しして戦国七雄のうちの六国からなる天下の大連合を組む。そして斉国へ向けて進攻した。
 済水西の決戦に斉軍は一敗地にまみれた。かつて祖父にあたる斉威王の代に、かの伝説的な兵法家孫臏を擁し、当時最有力国の魏を撃破したころから常勝国となった斉、その常勝国の御曹司として生まれ育った斉湣(閔)王は西の強大国の秦昭王と勝手に示し合わせて天下を二分し、東帝と称していた有頂天の時期もあったのだが、生まれて初めて大敗の報を聞いて気が動転し、ギャッ! と鳴いて斉都臨淄の城外まで飛び出すと、済水西の戦場に背を向ける格好で遠く南の方角へ一目散に逃走していった。楽毅率いる燕軍は勢いに乗り、連合軍を解散してから、敗走する斉兵を単独で追撃して進み、斉領深く侵攻して主なき臨淄の都に入城すると、先に燕国が同じ目に遭わされたように今度は斉国王室に伝わる宝物を根こそぎ掠取し、王宮も斉王代々の霊廟も焼き払い、ついに燕昭王のために先王の雪辱を果たした。そして5年のうちに斉国七十余城のほとんどが燕軍に抜かれ、最後まで抵抗する斉城は莒と即墨たったの二城、互いの連携もないそれぞれ単独での抗戦であった。斉国の余命は風前の灯)

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