『(改訂)先づ隗』
もっと訓み下し

  第1段
 燕(エン、=国名)の昭王(セウわう)、破燕(はエン)を収(おさ)め即位(そくゐ)せし後(のち)、身(み)を卑(ひく)く幣(へい)を厚(あつ)く以(もつ)て賢者(けんじゃ)を招(まね)き、将(まさ)に以て讎(あだ)に報(むく)いんと欲(ほつ)す。
 故(ゆゑ)に郭隗先生(カククワイせんせい)を往見(わうけん)して曰(いは)く、斉(セイ、=国名)、孤(こ)が国(くに)の乱(らん)に因(よ)りて破燕を襲(おそ)へり、孤、極(きは)まり燕の小(ちひ)さく力(ちから)の少(すく)なきを知(し)る、報(むく)ゆるを以て足(た)らじ、然(さ)りながら賢士(けんし)を得(え)て与(とも)に国を共(とも)にし以て先王(せんわう)の恥(はぢ)を雪(すす)ぐも孤の願(ねが)ひなり、敢(あへ)て問(と)ふ国を以て讎に報ゆるには奈何(いかん)せん。
(=冒頭文の燕昭王收破燕後即位、ここは收...と後...が三文字づつの句になっている構文と見るとリズムがいい。続く卑身厚幣 以招賢者 欲將以報讎、ここの二つある以の前者は前後の文節を省略的に接続する、後者の以は直後にある復讐の事情を省略したもの、その事情はすぐ次の段落で補足説明されるが、そもそもこの作品当時は常識も常識という話だったので先に省略するという荒業であっても問題ない。二段落目の故往見郭隗先生曰、ここの往は今でも医療業界に往診という言葉が残っているので往見と訓み換えてみた、すると郭隗先生に会うことを期して出かけたことになり、前回の解釈と異なるが、前回はむやみに大意を深読みしていた気がする、郭隗先生の先生は教師というより先に生まれて古いことを知っているの意、後文で古い法を語らせるための呼称。ちょっと飛ばして孤極知燕小力少 不足以報、ここの極は窮に代字したもの、無造作に「極めて力足らざるを知る」と読むと文意が飛躍する、太子だった昭王は進退窮まった状況に追い詰められたために燕が小さくその王位の力が少ないことを極めて思い知らされた、不足以報の以は直後の報復の仔細を省略する)
  第2段
 郭隗先生(カククワイせんせい)、対(こた)へて曰(いは)く、帝者(ていじゃ)は師(し)と与(とも)に処(を)り王者(わうじゃ)は友(とも)と与に処り霸者(はしゃ)は臣(しん)と与に処り亡国(ばうこく)は役(えき)と与に処る、指(ゆび)を詘(くつ)して之(これ)に事(つか)へ北面(ほくめん)して学(がく)を受(う)くれば則(すなは)ち己(おのれ)に百(ひゃく)する者(もの)(いた)る、先(さき)だち趨(はし)りて後(おく)れて息(いこ)ひ先(ま)づ問(と)うて後(のち)に嘿(もく)せば則ち己に十(じふ)する者至る、人(ひと)の趨りて己も趨らば則ち己に若(し)く者至る、几(き)に馮(よ)り杖(つゑ)に拠(よ)り眄視(べんし)指使(しし)せば則ち廝役(しえき)の人至る、若(も)し恣睢(しき)奮擊(ふんげき)し呴叱哆咄(くしつしとつ)せば則ち徒隸(とれい)の人至らん、此(かく)は古(ふる)く道(みち)に服(ふく)し士(し)を致(いた)すの法(はふ)なり、
 王、誠(まこと)に国中(こくちゅう)の賢者(けんじゃ)を博選(はくせん)してその門下(もんか)に朝(てう)せよ、天下(てんか)、王の其(そ)の賢臣(けんしん)に朝するを聞(き)き,天下の士、必(かなら)ず燕に趨らん。
(=第2段、帝者から亡國までの部分は兵法書『呉子』にこれと似た表現が出ている、また第4段の士卒...輕戰も呉子兵法に見られる表現、『戦国策』には他にも呉子兵法を借りたような作品があり、呉起当人の出演する作品まであるので、この一編も呉子兵法に発想した作品なのかといったんは考えたが、どうも『呉子』の半分と『戦国策』の一部はほぼ同時期に著作されたらしく、すると『呉子』から着想したと推論しても不審点があるこの一編はむしろ呉起兵法と並走しながら郭隈先生の言うとおり古き服道致士の法を引いているのかもしれない、ちなみに『呉子』の当該記述は『書経』や『荀子』に類似の文があると言われる。さて小難しい古法の服道致士を講じた後で郭隈先生の推奨は当然ながらその中の最上である帝者の服道致士となる、王誠博選國中之賢者 而朝其門下、博く選ぶの選ぶは選任や選挙など政治組織の予定人数を揃える場合によく使われる、取り揃えるという意味でえらぶ、博選は四方の広がりから掻い摘んで取り揃えるという感じ)
  第3段
 昭王(セウわう)(いは)く、寡人(くわじん)、将(は)た誰(たれ)にか朝(てう)して可(か)ならん。
 郭隗先生曰く、臣(しん)(き)く、古(いにしへ)の君人(くんじん)に、千金(せんきん)を以(もつ)て千里(せんり)の馬(うま)を求(もと)むる者(もの)なるも三年得る能(あた)はざること有(あ)り、涓人(けんじん)、君(きみ)に言(い)ひて曰く、請(こ)ふ之(これ)を求めん、君(きみ)(これ)を遣(や)る、三月(さんげつ)に千里の馬を得(う)るも、馬已(すで)に死せり、其(そ)の骨(ほね)を五百金(ごひゃくきん)に買(か)ひ、反(かへ)り以て君に報(ほう)ず、君大(おほ)いに怒(いか)りて曰く、求むる所(ところ)の者は生馬(せいば)なり、安(いづく)んぞ死馬(しば)を事(つか)ひて五百金を捐(す)てんや、涓人(けんじん)(こた)へて曰く、死馬すら且(か)つ之(これ)を五百金に買(か)ふ、況(いはん)や生馬をや、天下(てんか)(かなら)ず王を能(よ)く馬を市(か)ふと以為(おも)はん、今(いま)に馬至(いた)らん、是(ここ)に於(おい)て朞年(きねん)なること能(あた)はざるに、千里の馬の至(いた)る者の三(さん)ありき、
 今、王、誠に士を致さんと欲せば、先(ま)づ隗(クワイ)(よ)り始(はじ)めよ、隗すら且つ事(つか)へらる、況や隗より賢(けん)なる者をや、豈(あ)に千里を遠(とほ)しとせんや。
(=一段落目の昭王曰寡人將誰朝而可、すなおに文字どおり誰がいいかと翻訳している例が多い、しかしすでに郭隗先生から具体的活動を勧める提言があった、ここにさらに踏み込んだ問いは常識で考えてありえない、誰はもはや昭王に手渡された問題になっている。いにしえの君主がカンカンに怒っている安事死馬而捐五百金の文節、安の字は家のなかの女、事の字は仕事、自動詞ではツカへると訓むがここは死馬には仕えないから他動詞で死馬をツカふと訓む、死馬を用いて大損させたという程度の意だが本来働きがないはずの死馬を働かせるので実は涓人の無用の用に協力的な表現、意外にこの二人はグルであり茶番を演じている、捐の字はきっぱり捨てるのでドブに捨てるの意だが死馬骨をさも五百金の値打ち物のように丁寧に巻いていたことも読み取れなくはない)
  第4段
 是(ここ)に於(おい)て昭王、隗が為(ため)に宮(みや)を築(きづ)きて之(これ)を師(し)とす。楽毅(ガクキ)、魏(ギ、=国名)より往(ゆ)き、鄒衍(スウエン)、斉より往き、劇辛(ゲキシン)、趙(テウ、=国名)より往き、士、燕に争(あらそ)ひ湊(あつ)まる。
 燕王(エンわう)、死(し)を弔(とむら)ひ生(せい)を問(と)ひ、百姓(ひやくせい)と其(そ)の甘苦(かんく)を同(とも)にすること二十八年(にじふはちねん)、燕国(エンこく)殷富(いんぷ)し、士卒(しそつ)は楽佚(らくいつ)し戦(たたか)ひを軽(かろ)んず。
 是(ここ)に於(おい)て遂(つひ)に楽毅(ガクキ)を以(もつ)て上将軍(じやうしやうぐん)と為(な)し、秦(シン、=国名)、楚(ソ、=国名)、三晋(さんシン、=趙魏韓の三国)と謀(はかりごと)を合(あ)はせ以て斉を伐(う)つ。
 斉の兵(へい)(やぶ)れ,閔王(ビンわう)、外(そと)に出走(しゅっそう)す。燕の兵、独(ひと)り北(に)げ入(い)るを追(お)ひ臨淄(リンシ、=斉の都)に至(いた)り、尽(ことごと)く斉の宝(たから)を取(と)り、その宮室(きゅうしつ)宗廟(そうべう)を焼(や)く。斉の城(しろ)の下(くだ)らざる者、唯(た)だ独り莒(キョ)、即墨(そくぼく)のみ。

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