『(改訂)先づ隗』
現代日本語訳

 燕の昭王は破滅の淵にあった国で即位し、やがて戦国期随一の名君となるのだが、即位からしばらくはどうにも事がはかどらなかった。彼は自分では質素倹約に勉めて身を修め、そして臣士人民には手厚く給付して、そういう地道なやり方で賢者を招き寄せていた。その愚直な努力はひとえに復讐したいという悲願のためだったが、しかし進捗ははかばかしくなかった。
 そこで説客の郭隗先生を訪ねて相談してみた。「斉国は天に見捨てられた我が国の内部抗争に乗じて、仲裁を買って出るようなフリで襲来しました。ぼくはご存知のように太子の立場を追われ、斉の援軍にも裏切られ、すでになす術なく占領統治されて属国のように扱われる故国の転落を指をくわえて眺めるしかなく、ツバメは小さくて脚もか細いなあとつくづく思い知らされました。とても斉国に復讐する話ではありません。でも──知謀鬼神の如き一騎当千の人士を得て、彼らみんなと一緒に国事を図り、かの折に戦死なされた我が父君(ふくん)の借りを返すことがぼくの使命、そしてこの国の悲願なのです。非常に難問ですが、この小さく少ない国が復讐をやり遂げるにはどうしたものでしょうか、何かいい方法はありませんか」
 郭隗先生は一呼吸おいて申し上げた。「帝者與師處、王者與友處、霸者與臣處、亡國與役處。(聖帝は常に師と一緒にあり、王者は友と、覇者は臣と常に過ごし、亡びる国には気軽に使える従僕ばかりがある)。詘指而事之、北面而受學、則百己者至。先趨而後息、先問而後嘿、則十己者至。人趨己趨、則若己者至。馮几據杖、眄視指使、則廝役之人至。若恣睢奮擊、呴籍叱咄、則徒隸之人至矣。(指図の指を折り曲げてむしろ臣従し、まったく臣下の態度で相手の話を学ぶように聞くなら、自分に百倍優れた者を迎える。誰より仕事は先駆けて休息は最後に取り、最初に問題を指摘してあとは人の意見にじっと耳を傾けるなら、自分に十倍優れた者を迎える。人の後から自分も見習えば、自分程度の者が来る。几杖に寄りかかって権威を笠に着、人を横目に見て指で使えば、雑役向きの無能な人が来る。そして我がまま気ままに打擲を振るい、息も荒げて叱り飛ばすようでは、もはや卑しい奴隷だけが来る)。これが古来言われる服道致士(道徳に応じた人材獲得)の法則でございます。
 王さま、性根を据えて国中の賢者をあまねく選りすぐり、その門下に参じてお学びになられませ。王さまがお望みになっておいでの人材獲得にはそれが何より効果てきめんでございます、優れた臣下を師と仰ぐことは天下に聞こえ、かならずや名の知れ渡った人材が燕国に詰め掛けることになりましょう」
 昭王は思案顔を曇らせた。「う~ん、しかし、いったいわたくしめはどこのどの賢人に学んだものでしょうか」
 昭王の困惑はごもっともだった、海老で鯛を釣ろうにも手始めの海老すら寄り付かない今の燕国である。ところが郭隗先生の表情を窺うと、むしろ説客の悪賢い面構えが一際濃く彫り込まれていた。「わたくしはこんな話を聞いております。古い世の君主であられた方なのですが、千金を払ってでも千里の馬を持ちたいとお思いになられたのです。ところが三年探させてみても手に入れられません。すると小間使いの者が名乗りをあげまして、自分が探してみせると申します。主君は行かせてみました。たったの三か月で本当に正真正銘千里の馬を見つけ出したのでございます。ただし、とっくにしかばねになっていた馬でした。小間使いはその骨を五百金で買い求め、主君にそのままをご報告いたしました。主君はもうカンカンです、生きた馬でなければ意味がない、死んだ馬に何の働きがあって五百金もの大金を払った──大金をドブに捨てるようなものではないか、これ見よがしに馬の骨をこんなご丁寧にくるみやがって──、当然そうこっぴどく叱り飛ばします。しかし小間使いはうそぶきました、そうです、いくら良馬と言ったって死んだものに五百金なんてべらぼうです、だったら生きていれば想像もつかないほどすごい値で買い取られているに決まっています、つまりは王さまが莫大な資金で馬を商うことは必ずや天下に知れわたります、そうなれば今にお目当ての馬も向こうからやって来ることでございましょう。そう小間使いが申し上げましたとおり、一年もしないうちに本当に千里の馬を持ち込んできた者が三件もあったそうでございます。
 さて王さま、本気で天下の人材を招きたいとお思いあられるなら、真っ先にこのお傍に見えます隗を手始めとなされませ。こんな名もない隗めでさえ師と仰がれるなんてべらぼうです、だったらこの隗より能のある者ともなれば想像もつかないほど丁重に迎えられるは必定、誰が遠路はるばる王さまのもとに参ることを苦労だと考えますでしょうか」
 こうして昭王はとにもかくにも隗めのために宮殿かと見紛うばかりの立派な館舎を設け、そしてその門下に学んでみたのだった。すると楽毅が魏の国から、鄒衍が斉から、劇辛が趙から飛んで燕に入り、天下の人材が燕国昭王のもとに殺到した。
 (燕の国の君王は国人が死んだと聞けばその葬儀に参じて弔い、まだ生きていると聞けばその近況を気に掛けて訪問し、28年ものあいだ、すべての国人と苦楽を分かち合う。いよいよ燕国は富み栄え、そして士卒は暮らし向きが楽になってお国のために戦う意欲を旺盛にした。
 満を持して、楽毅を総大将に任命し、秦、楚、三晋の合わせて五か国に根回しして戦国七雄のうちの六国からなる天下の大連合を組む。そして斉国へ向けて進攻した。
 済水西の決戦に斉軍は一敗地にまみれた。かつて祖父にあたる斉威王の代に、かの伝説的な兵法家孫臏を擁し、当時最有力国の魏を撃破したころから常勝国となった斉、その常勝国の御曹司として生まれ育った斉湣(閔)王は西の強大国の秦昭王と勝手に示し合わせて天下を二分し、東帝と称していた有頂天の時期もあったのだが、生まれて初めて大敗の報を聞いて気が動転し、ギャッ! と鳴いて斉都臨淄の城外まで飛び出すと、済水西の戦場に背を向ける格好で遠く南の方角へ一目散に逃走していった。楽毅率いる燕軍は勢いに乗り、連合軍を解散してから、敗走する斉兵を単独で追撃して進み、斉領深く侵攻して主なき臨淄の都に入城すると、先に燕国が同じ目に遭わされたように今度は斉国王室に伝わる宝物を根こそぎ掠取し、王宮も斉王代々の霊廟も焼き払い、ついに燕昭王のために先王の雪辱を果たした。そして5年のうちに斉国七十余城のほとんどが燕軍に抜かれ、最後まで抵抗する斉城は莒と即墨たったの二城、互いの連携もないそれぞれ単独での抗戦であった。斉国の余命は風前の灯)

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