『燕昭王破燕を収め』
第4段 8∼11

 第4段 8
 「於是昭王為隈筑(築)宮而師之。樂毅自魏往,鄒衍自齊往,劇辛自趙往,士爭湊燕。」
 ここにおいて昭王、隗の為(ため)に宮を築(きづ)きて之(これ)を師とす。楽毅は魏より往(ゆ)き,鄒衍は斉より往き,劇辛は趙より往き,士、争(あらそ)ひて燕に湊(あつ)まる。
 ─ 『於是(ここにおいて)』そこで、そういうわけで。この場合の『於』は原因であることを表す助字。『是』は代名詞。『於是』で、前文までの内容が原因であるということ。それは結果を述べることから見れば発語となる。ここにおいて、小説・論述などのアウトライン(骨格)上に現れる『於是』は結末・結論の発語。この文の『於是』がそれ。『於是』以下の文章で一巻を終わる定型の体裁。この続きを見ていくと、再度『於是』と出てくるが、それ以後の文章は必ずしもこの小説の内容を原因としていないため、再出の『於是』より前で作品を締めくくるほうがよくまとまる。再出『於是』以下の文章は他の小説から『於是』の語以下を持ってきて、それを『於是』の語でむりやりこの作品の結びとした感がある。結句がいかにも中途半端。また、この小説にまったく内容が別の小説をつなげて一編とする例もある。この小説もたいへん愛され、燕昭王のやり遂げた燕斉戦争も大人気の題材だったため、この小説からの大河ドラマ化が試みられたのかもしれない。『鄒衍』は前300年代末の著名な思想家といわれ、『劇辛』は前200年代前半。『自...往』は『…の国より往(い)ぬ』で、その国から忽然と消える言い方、引抜き感がある。 ─
 第4段 9
 「燕王吊(弔)死問生,與百姓同其甘苦。十二八(二十八)年,燕國殷富,士卒樂佚輕戰。」
 燕王、死を弔ひ生を問(と)ひ,百姓(ひやくせい)と其(そ)の甘苦を同じうすること二十八年。燕国殷富し,士卒は楽佚して戦(たたか)ひを軽(かろ)んず。
 ─ 『楽佚』は『佚楽』。『佚』は人が失う、失う人で、逃散した逸民、不道徳な佚女など、なかなか明るい意味では使われないが、政治に関して佚楽といえば人民を安逸にする意で善政。『輕戰』は戦争を軽く考える、勇猛にも平和ボケにも使えそうだが、『輕』はクルマ偏が戦車、『輕』でまっすぐ突き進む戦車なので、『輕戰』といえば戦闘意欲が高い。 ─
 第4段 10
 「於是遂以樂毅為上將軍,與秦、楚、三晉合謀以伐齊。」
 ここにおいてつひに楽毅を以て上将軍と為(な)し,秦、楚、三晋と謀(はかりごと)を合(あ)はせて以て斉を伐(う)つ。
 ─ 楽毅出陣。『謀(はかりごと)を合(あ)はす』の『謀』には陰で・秘密裡にの意味合いがあるので、『合謀』は陰で取り交わされる密約、事件報道でいう談合。『秦、楚、三晋と』つまり首謀国の燕を加えて戦国七雄のうちの六国。 ─
 第4段 11
 「齊兵敗,閔王出走於外。燕兵獨追北入至臨淄,盡取齊寶,燒其宮室宗廟。齊城之不下者,唯獨莒、即墨。」
 斉の兵敗れ,閔王、外に出走す。燕の兵ひとり北(に)ぐるを追(お)ひ、入(い)りて臨淄に至り,尽(ことごと)く斉の宝を取り,その宮室宗廟を焼く。斉の城の下(くだ)らざる者は,ただ独り莒、即墨のみ。
 ─ 連合軍と斉軍は済水の西で相対する。済水西の大決戦。『閔王出走於外』は斉湣(閔)王がショックを受けたさま、今で言えば跳び上がるほどビックリした様子。この時代はもう諸侯自身が戦場に出ることはないので、湣王は後出の斉都臨淄で敗戦を聞いている。ここの『外に出走す』は古くから国外亡命と解釈され、その語釈に拠ったエピソードまで語られてきたが、再考証が必要。この文の構造を見ると、『出(走於外)』と『入(至臨淄)』が対語修辞。『入』は燕の兵が斉領深く侵入した。そして斉都臨淄に至ったとき、臨淄のありさまがどうだったかというと、『出』を含む句であらかじめ補われている。『閔王出走於外』、すでに国主は取るものも取り敢えず慌てふためいて逃走していた後。つまりここの『外に出走す』は後ろの句を補助するための仕込みなので、どこへ出走したかという深読みは無用のこと、強いて言うなら居城の外へ。ところで、済水西の勝敗が決すると、斉兵は自国領内へ散り散りに敗走し、かたや勝った連合軍の燕の兵は破竹の快進撃で『独り北(に)ぐるを追(お)ふ』のだが、『閔王出走於外』はまだ楽毅が襲来する前のこと、つまり済水西の敗戦を聞いた直後の湣王のリアクション。威王宣王という先代二代のおかげで敗北を知らない東帝の湣王なので、夢にも思わなかった済水西の大敗の報に仰天、湣王狂乱、取り乱して外へ走って出た、あるいは斉都郊外へ飛び出して逃走したのである。『燕兵獨...、唯獨莒即墨』、独りは人数の一人とは微妙に異なり、単独、孤独、独自など、他と切り離されていること。『ただ独り莒、即墨のみ』はただ莒と即墨のみがそれぞれ単独で籠城、互いの連携はなかったの意で『独り』。 ─


 昭王はその話にすっかり得心し、さっそく従うことにした。郭隗先生のために宮殿かと見紛うばかりの立派な館舎を設け、そしてその門下に学んだのである。すると楽毅が魏の国から,鄒衍が斉から,劇辛が趙から、天下の人材が燕国昭王のもとに殺到した。
 燕の国の君王は国人が死んだと聞けばその葬儀に参じて弔い、まだ生きていると聞けばその近況を気に掛けて訪問し、28年ものあいだ、すべての国人と苦楽を分かち合う。いよいよ燕国は富み栄え、そして士卒は暮らし向きが楽になってお国のために戦う意欲を旺盛にした。
 満を持して、楽毅を総大将に任命し、秦、楚、三晋の合わせて五か国に根回しして戦国七雄のうちの六国からなる天下の大連合を組む。そして斉国へ向けて進攻した。
 済水西の決戦に斉軍は一敗地にまみれた。かつて祖父にあたる斉威王の代に、かの伝説的な兵法家孫臏を擁し、当時最有力国の魏を撃破したころから常勝国となった斉、その常勝国の御曹司として生まれ育った斉湣(閔)王は西の強大国の秦昭王と勝手に示し合わせて天下を二分し、東帝と称していた有頂天の時期もあったのだが、生まれて初めて大敗の報を聞いて気が動転し、ギャッ! と鳴いて斉都臨淄の城外まで飛び出すと、済水西の戦場に背を向ける格好で遠く南の方角へ一目散に逃走していった。楽毅率いる燕軍は勢いに乗り、連合軍を解散してから、敗走する斉兵を単独で追撃して進み、斉領深く侵攻して主なき臨淄の都に入城すると、先に燕国が同じ目に遭わされたように今度は斉国王室に伝わる宝物を根こそぎ掠取し、王宮も斉王代々の霊廟も焼き払い、ついに燕昭王のために先王の雪辱を果たした。そして5年のうちに斉国七十余城のほとんどが燕軍に抜かれ、最後まで抵抗する斉城は莒と即墨たったの二城、互いの連携もないそれぞれ単独での抗戦であった。斉国の余命は風前の灯。

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