『燕昭王破燕を収め』
語註⋅読解

 第1段
 ─ 燕昭王は紀元前300年前後の燕国君主。在位三十二年間のうち二十八年間を国の雪辱のための臥薪嘗胆にあてたとされる。戦国時代における最も劇的な燕斉戦争で宿願を果たす。そのため戦国期随一の名君と言っていいこの燕王を知らぬ者はなく、この小説のように燕昭王...と書き出しただけでおおよそ作品世界観は了解された。原文『厚幣』は手厚い贈物や引出物。幣は貨幣の幣、原義は絹布の切れ端、貨幣経済以前はそれが貨幣の代わりだったことも。『卑身厚幣』で、家族だけの普段は質素に食事して来客時に御馳走を出すような感覚、いわゆる自分に厳しく他人に優しく、大国の君主なのに見上げた心掛けと言っている。ただし、この冒頭文では、表に見える生活態度からは国の雪辱に懸ける本気度が窺えるものの、それが一向に人材獲得に結び付いていない、怨敵斉国への報復にいたっては夢のまた夢という段階。『以て…、将に以て…』の畳みかけはその歯がゆさの強調。何かがまだ足りていない。 ─
 ─ 原文『往見…』往の字は古文で『往(い)ぬ』と訓される。希少なナ行変格活用動詞。『行、逝』と同じく『ゆく』の意だが、『往』は行き先の問題ではなく、どちらかといえば立去る、行っちゃったという表現。まさに『ゆく』より『往(い)ぬる』。この文でも、(燕昭王は)どこへという目的地の提示がない。つまり、居ても立ってもいられずにフラっとお出掛けの焦燥する燕昭王。わざわざ郭隗先生を訪ねたのではなく、たまたま見かけただけである。『孤』は謙譲一人称、ここでは少し気安く甘ったれている。『破燕』は前文でも『破燕を収む』として出た。この文では『斉、破燕を襲う』と用いられる。つまり破燕とは、斉の兵に撃破されたことには関係なく、すでに破砕していた燕国を言うようである。 ─
 第2段
 ─ 最後に『これ古(いにしへ)の道に服し士を致すの法なり』の句で締め括るとおり、厳めしい古法でお茶を濁し、純真一途な君主をけむに巻く郭隗先生。まるで体裁だけご立派なお役所文書である。とはいえ、付け込まれる瑕疵のない鉄壁のごときお役所文書を作る技術もいにしへの説客にとっては職業訓練科目の一つ。『先生對曰』対はいわゆる目上の人に対して応答する『対(こた)へる』、対等の立場には『応へる』。君主に対して『北面せよ、臣下に事へよ』と、冒頭文『卑身厚幣』の一層の拡充を勧める内容だが、あくまで郭隗先生は食わせてもらっている立場、そこはケジメである。『郭隗先生』の郭は城郭の郭、日本で城郭の郭は城の字を修飾する、古代中国では都市をすっぽり囲む防御城壁。古法に、しっかり国を守備する場合は堀を深く壁を高くとある。隗は鬼という部首が目を引くとおり、恐ろしく厳しい、コザト偏なので山水画に描かれるような鋭角すぎて絶対のぼれない峻厳な山岳。『郭隗』で、信じられないほど堅牢な都市防御壁。要するに燕国の守護神、もっと絞り込むと燕昭王治世下に現れた座敷童さま。それにしても、ばったり会った燕王から、せっかちに斉国征討という陰謀案件について妙策を諮問される郭隗先生。この手始めの長文では、迂遠な古の法でその場しのぎに努めている。早まって燕昭王の師と解説されることもある郭隗先生、しかし最後の段まで読めば了解されるとおり、それは後で出てくる厚かましい催促が奏功した結果である。この手始めの時点ではまだ燕昭王と与(とも)に国を共にしている説客ではない。明日になれば当の斉国宣王の御前で自分を売り込んでいるかもしれない身の上。そこで斉国への復讐という燕君最大の悲願については棚上げし、対話の焦点をひたすら人材登用法に集めようとしている。『帝者...王者...覇者...亡国...』と列記する論法は歴史研究が進んだ後代のもの。『覇者』はいわゆる春秋五覇時代における諸侯互助会の盟主、最初は前600年代、最後は前400年代前半の越王勾践。これ古の法なりとはいうものの、紀元前300年代末というこの小説の時代設定から見て、そこまで古来かどうか。『亡国は役(えき)とともに』この役はあとに『廝役(しえき)の人』という語が出ているので廝役・僕役の意とされる、召使いや下僕のように使役される木っ端役人。ただし役には戦争の意もある。原文『古服道致士之法』、『致す』は丁寧にすること、丁寧に送って行くこと、ここは招致の『致』。『古』は今の対義語、『此古...法也』真に古法の信奉者であればこんな解説は付けない。 ─
 ─ ここまでは道学者か古法の伝道者を気取って尊大な郭隗先生。『國中之賢者』はちょっと前まで破燕だったはずの燕国内の大先生。どこに潜んでいるはずもない彼らを『博(ひろ)く選びて』と言っている。『朝』は朝議・朝廷の朝。毎日定例の御前会議は午前中に済ませる習わしだったから朝議、そこから朝廷。『朝(てう)す』は参朝、臣下が朝議のために参内する、君王はつねに臣下を招集する立場だから参朝と言わない、この文の『その門下に朝(てう)す』は君主と賢臣の主従関係を逆転させた比喩表現、君王のほうから賢者の門へ意見伺いに出向くことを君王の朝や臣下の参朝にたとえた。─
 第3段
 ─ この『将(は)た』はそもそも、いったい。まるで思いつかない、皆目見当がつかない、手掛かりがつかめない。『将』は将軍・大将の将だが、率いる意、前置詞 且の字に代用された。前文、郭隗先生の結論は『国中から選びなさい』、昭王の途方に暮れる『将(は)た誰』はそれに対する根本からの疑問。『寡人』は謙譲一人称、最初の段の『孤』よりもフォーマル。相手の郭隗先生が堅苦しい原則論を言うので、自分も襟を正した。『朝(てう)して』は臣下の参朝、普通ならば君主である昭王はしない、相手の話にオウム返しした。ここまで、賢者賢臣を将た誰と言換えた以外は相手の郭隗先生の流儀論法に順っている。つまり、先生のご高説はごもっともですが、今度は肝心のその国内賢者賢臣について実名を教えてくださいませんか、と追及した。『寡人...』以下数語しか発しない昭王は会話当初の段から変貌して冷ややかな真顔なのである。なにしろ、ご大層な古法を持ち出して尊大に構えた郭隗先生だったものの、とっくに馬脚を現している。彼の意見の主旨は臣下にも師事するほどの謙虚な心構え。一般的には反論を食らうことがなく、それゆえ使い古されてきた重宝な帝王学である。ところが子之の乱からの破燕で辛酸を舐めてきた昭王に限っては何よりの禁句。先代の父王がそれこそ臣下に謙譲しすぎたため国内分裂の破燕に陥り、そして斉国の侵攻を招いている。この説客はそんな下調べも怠けているふつつか者なのだった。もっとも、後に名君と称えられる昭王だけあって、すぐさま怒りを露わにするということもない。嵐の前の静けさ、『寡人...』と、急にあらたまった口調になり、声のトーンを落として、『将(は)た誰?』意地悪な二の句を継いだのだった。『誰』は何びと・何者ではなく誰、どういうタイプの人かではなく誰、個人の名を問う、つまり身元不明ながら特定の人。裏返せば郭隗先生の前文を抽象に過ぎると批判する。もちろん郭隗先生の口から燕国賢者の名が語られることに期待しているのではない、一人の賢者賢臣どころかこの国のことをなんにも知らない説者だと見透かしていながらの下問である。 ─
 ─ 有名な『死馬(の骨)を買う』のたとえ。やにわに深刻な昭王を威儀高々に一般論で丸め込もうとした郭隗先生、よりにもよって昭王に臣下への臣従というむやみな忠告を口走ってしまい、すかさず『この国の賢者賢臣にとは、そも誰に仕えれば良いと?』厳しい追及が待っていた。この国の才子一人どころか燕国の事情も知らない、かといって口に出したものを引っ込めていては説客稼業が立ち行かない。有名なたとえはそうした窮地の立場を借りて語られている。その論述は対句の応酬。千金と千里の馬、また五百金。三年と三月。生馬と死馬。涓人(けんじん)と捐(す)つる。買(か)ふと市(か)ふ。『朞年(きねん)』の『朞』は月の一巡り、原義は一か月、十二か月十三か月で一巡りと見て『朞年』は一年。『涓人(けんじん)』は宮中の雑用係といわれる、ひいては宦官とも。『涓』に似た字の絹、イト偏にツクリは巻く意、ツクリの巻くは人間になにか巻いている形。蚕から取った糸をくるくる巻いて絹。テ偏で人を巻く『捐(す)つる』はいわゆる簀巻き、人の簀巻きは死人を投棄するため、親しい死体ならきちんと葬るから、『捐(す)つる』は厄介払いのドブ捨て、呉王夫差による伍子胥の簀巻きが有名。今日では主に義捐金という語で用いられる、字義からすれば義援金や寄付という語とは一線を画して本当に捨てた気のゼニ。『涓人(けんじん)』は何か巻いた人の水仕事、雑巾がけや洗浄、調理など、ただし大昔に人といえばあくまで人士だから、宮中の雑用係となる。 ─
 ─ 有名な『先づ隗より始めよ』のたとえ。意味は『死馬(の骨)を買う』のたとえと同じく宣伝活動。『千里を遠しとす』の否定・反語形は遠方よりすっ飛んで来たるの意の常套句。前文の千里の馬にも掛ける。『誠に』は郭隗先生の結論として再出なので、畳みかけの強意。四の五の言わせぬ説得。昭王も乗せられてしまい、後段のとおりに。その結果を郭隗先生の立場で見ると、父王の二の舞になる愚かさすら忘れさすほど巧みな弁舌だったということになる。また、昭王の立場で見ると、何より避けるべき父王と同じ道を進むことさえあえてしたおかげで賢者獲得が実現したということになる。 ─
 第4段
 ─ 『於是(ここにおいて)』そこで、そういうわけで。この場合の『於』は原因であることを表す助字。『是』は代名詞。『於是』で、前文までの内容が原因であるということ。それは結果を述べることから見れば発語となる。ここにおいて、小説・論述などのアウトライン(骨格)上に現れる『於是』は結末・結論の発語。この文の『於是』がそれ。『於是』以下の文章で一巻を終わる定型の体裁。この続きを見ていくと、再度『於是』と出てくるが、それ以後の文章は必ずしもこの小説の内容を原因としていないため、再出の『於是』より前で作品を締めくくるほうがよくまとまる。再出『於是』以下の文章は他の小説から『於是』の語以下を持ってきて、それを『於是』の語でむりやりこの作品の結びとした感がある。結句がいかにも中途半端。また、この小説にまったく内容が別の小説をつなげて一編とする例もある。この小説もたいへん愛され、燕昭王のやり遂げた燕斉戦争も大人気の題材だったため、この小説からの大河ドラマ化が試みられたのかもしれない。『鄒衍』は前300年代末の著名な思想家といわれ、『劇辛』は前200年代前半。『自...往』は『…の国より往(い)ぬ』で、その国から忽然と消える言い方、引抜き感がある。 ─
 ─ 『楽佚』は『佚楽』。『佚』は人が失う、失う人で、逃散した逸民、不道徳な佚女など、なかなか明るい意味では使われないが、政治に関して佚楽といえば人民を安逸にする意で善政。『輕戰』は戦争を軽く考える、勇猛にも平和ボケにも使えそうだが、『輕』はクルマ偏が戦車、『輕』でまっすぐ突き進む戦車なので、『輕戰』といえば戦闘意欲が高い。 ─
 ─ 楽毅出陣。『謀(はかりごと)を合(あ)はす』の『謀』には陰で・秘密裡にの意味合いがあるので、『合謀』は陰で取り交わされる密約、事件報道でいう談合。『秦、楚、三晋と』つまり首謀国の燕を加えて戦国七雄のうちの六国。 ─
 ─ 連合軍と斉軍は済水の西で相対する。済水西の大決戦。『閔王出走於外』は斉湣(閔)王がショックを受けたさま、今で言えば跳び上がるほどビックリした様子。この時代はもう諸侯自身が戦場に出ることはないので、湣王は後出の斉都臨淄で敗戦を聞いている。ここの『外に出走す』は古くから国外亡命と解釈され、その語釈に拠ったエピソードまで語られてきたが、再考証が必要。この文の構造を見ると、『出(走於外)』と『入(至臨淄)』が対語修辞。『入』は燕の兵が斉領深く侵入した。そして斉都臨淄に至ったとき、臨淄のありさまがどうだったかというと、『出』を含む句であらかじめ補われている。『閔王出走於外』、すでに国主は取るものも取り敢えず慌てふためいて逃走していた後。つまりここの『外に出走す』は後ろの句を補助するための仕込みなので、どこへ出走したかという深読みは無用のこと、強いて言うなら居城の外へ。ところで、済水西の勝敗が決すると、斉兵は自国領内へ散り散りに敗走し、かたや勝った連合軍の燕の兵は破竹の快進撃で『独り北(に)ぐるを追(お)ふ』のだが、『閔王出走於外』はまだ楽毅が襲来する前のこと、つまり済水西の敗戦を聞いた直後の湣王のリアクション。威王宣王という先代二代のおかげで敗北を知らない東帝の湣王なので、夢にも思わなかった済水西の大敗の報に仰天、湣王狂乱、取り乱して外へ走って出た、あるいは斉都郊外へ飛び出して逃走したのである。『燕兵獨...、唯獨莒即墨』、独りは人数の一人とは微妙に異なり、単独、孤独、独自など、他と切り離されていること。『ただ独り莒、即墨のみ』はただ莒と即墨のみがそれぞれ単独で籠城、互いの連携はなかったの意で『独り』。 ─

inserted by FC2 system