『燕昭王破燕を収め』
解題

 要するに「死馬(の骨)を買う」というたとえ話を紹介したかった小説なのでしょう。
 そのために選ばれた舞台が戦国期燕斉戦争における燕国昭王の治世でした。
 「死馬(の骨)を買う」のたとえは古くからたいへん面白がられてきたようです。今で言えば宣伝効果の威力を説いています。古い言い方では評判を利用するということになるでしょう。
 意図的に評判を操作することで有利になるといえば、現代では金融市場の不正やら疑惑やらを連想させますが、そうしたズルをするワルい発想はこの小説の他にも『戦国策』の中でいくつか説かれています。
 たとえば今でもよく知られる「伯楽の一顧」の話。自分の売り馬に良馬のお墨付きを得るため、目利きである名伯楽に謝礼を払って名残り惜しそうに振り返ってもらうというたとえです。そういえば、これも馬取引市場をたとえ話の舞台にしています。
 そうした意識的に評判を操縦する悪知恵はいわゆる老荘哲学の無用の用という思想に関連するそうです。
 「無用の用」という語は『荘子』書のなかに出てきます。孔子が楚の国に逗留した折、その宿舎の門前で楚の国の隠者である狂接輿が吟ずるという話、「鳳よ鳳よ」で始まり「已みなん已みなん...殆いかな殆いかな...」と続く有名な狂言の結句です。「人みな有用の用を知るも、無用の用を知る無きなり」と出ています。
 有用の用、無用の用とは、役立つ物の利用法と役立たない物の利用法ということです。
 また無用の用とは価値の認められない物の有用性と言い換えてもいいのですが、この思想は老荘哲学の書中では必ずたとえを引いて述べられます。なぜたとえ話にしたがるのかというと、わかりやすくするためばかりではなく、この思想の核心が不謹慎な屁理屈だからです。
 戦国時代の諸子百家にはヘリクツを売り物にする一派があったとされ、今では論理学派と呼ばれます。古代には名家と言われました。
 彼らはあまりに馬鹿げた、あるいはあり得ない結論で耳目を驚かし、そうした結論を導き出す論理の妙で勝負していたとされます。たとえば、白馬は馬に非ず。たとえば、火は熱からず。たとえば、孤駒は未だ嘗て母あらず。
 その一派を代表するアマノジャク思想家としては恵施や公孫竜などの名が挙げられます。
 なにしろ彼らのひねり出す結論はひどく常識外れであるため、その結論を証明する弁論術もたいへん苦しいものになったようですが、逆に見れば彼らのヘリクツ議論のおかげで論理的表現が飛躍的に発達しました。
 そこで彼らは後に論理学派と称され、後々の文学に大きな影響を及ぼしたとされます。
 ところで、この「先づ隗より始めよ」の小説も賢士獲得を主題にしていますが、彼ら恵施や公孫竜などの活躍したとされる戦国期は求人需要が旺盛であり、人材市場が活況を呈していたため、諸子百家にとっては自身群を抜く優れた賢者であることが何よりの大事であり、学問はそのための道具でしかありません。
 『荘子』天下篇によると、恵施は自身の弁論術が古今東西の誰よりも優れたものであると誇っていたそうです。また、よく孔子門三千人と言われ、春秋時代末期、孔子の門下に数えられた弟子は三千人にのぼったとされます、そしてその大半は学者になることを志していたのではなく、やはり立身出世のために学問を求めたのでした。
 しかし秦代、また漢代になると、賢士に対する求人需要は凋み、人材市場の活況は火が消えます。後代になって科挙の制度で救われるまで、思想家先生方は冬の時代を送ることになりました。隠者が激増し、仙人が出現します。
 荘子派はそのころ登場し、当然ながら隠者的でした。彼らは学派信条として俗世の立身願望から解脱していたというより、学問ではろくに出世が見込めない時代に生まれついたため、開き直って解脱とうそぶき、万物斉同の世を逍遙遊したのです。
 彼ら荘子派は積極的に論理学派を引き継ぎ、詩的なまでに磨き上げられた論理表現を展開します。伝説上も、荘周と恵施は議論友達だったとされました。
 しかし論理学派が自身の知的才能を引き立てるためにひねり出していた愚にもつかない結論は遁世志向の荘子派には不要でした。むしろ荘子派に言わせれば万物は斉同、世に馬鹿げた事物があってはなりません。
 『荘子』書の首篇である逍遙遊篇に荘周と恵施の議論説話が二つあります。どちらも、恵施の持て余していた無用の長物を荘周があざやかに使い回すという内容です。また天下篇では、論理学派を評して、「能く人の口に勝つも、人の心を服せしむること能はず」としています。
 つまり荘子学派においては愚にもつかない天邪鬼な結論が修正され、また人を心服させる思想が追究されました。
 この小説の目玉となる「死馬(の骨)を買う」のたとえ話はそうした荘子哲学の無用の用という思想からは微妙にズレていますが、無用な事物の有用性を説く点において荘子学派の強い影響が窺えます。荘子派の次世代あたりが創作したのかもしれません。
 もう一つ、この小説の成功要因としては舞台設定が秀逸だったことも挙げられます。
 『戦国策』文学においても多くの作品で取り上げられている戦国期の燕斉戦争、とても愛されていた題材のようです。
 作者はその戦国期燕斉戦争から燕昭王の二十八年にも及ぶ祖国復興政治を切り取りました。
 父王の素っ頓狂な禅譲政策のせいで内紛状態に陥り、隣国斉によって属国のように支配統治されてしまった燕国。破燕と形容されるそのどん底の祖国で即位した昭王は固く雪辱を誓い、富国強兵に努めること一心不乱。
 大志を抱くそのけなげな為政に共感する者少なしとせず、楽毅など天下の賢才有能の士がその治国経世に参与したと伝えられます。
 さて、「死馬(の骨)を買う」という宣伝効果の寓話をそうした感動的な舞台に当てはめてみたこの小説。後世になると、この小説からは「死馬(の骨)を買う」というたとえの成句よりむしろ文中の一句でしかない「先づ隗より始めよ」のほうが成句として有名になりました。
 「先づ隗より始めよ」という成句は以上のように、燕昭王の涙ぐましい治世という舞台背景の魅力と「死馬(の骨)を買う」というたとえ話の面白さ両方を一遍に表そうとする欲張った言葉です。
 しかし今では、「先づ隗より始めよ」といえば、大望も手始めは身近なところからという意味以上には理解されていません。そうなると孟子儒学の方法論でしかなく、魅力的な舞台背景と面白いたとえ話は虻蜂取らず。
 俗に言う一粒で二度おいしい効果を狙った「先づ隗より始めよ」という成句でしたが、世のなか一般はそんな意図を汲み取ってあげられるほど勉強熱心ではないのでしょう。

Oct 23, 2017 - サイト管理人

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