『晋畢陽の孫予譲』
語註⋅読解

 1. 前段
 ─ 畢陽は春秋時代晋国の賢人とされる。畢氏をさかのぼると、始祖は周初の畢公高。高は周朝封建制の開祖である周武王の弟、つまり周文王の子、畢という地を賜って畢公と称される。畢の地には文王以来の周王代々の霊が安置された。いわば晋の畢陽という賢人の祖は封建制周朝の霊を守っていた。この時代劇の主人公はその晋畢陽の孫。もっとも、晋畢陽は西紀前500年代前半の人、この物語は西紀前450年ころ。封建主義忠義物語という時代劇の系図背景としてはたいへん気が利いているものの、畢陽の孫とするにはちょっと年代的に無理がある。 ─
 ─ 『三晋知氏を分つ』については解題参照。中国古代史上最も有名な権力闘争劇である。趙襄子は知伯に攻められ、数年にわたる生き地獄の籠城戦を余儀なくされた。『最も知伯を怨む』はそのため。原文の而將其頭以為飲器は古来善い解釈がなく、飲器が酒器か便器かでモメてきたと言われる、しかし器の字は後には酒器と使われるものの本来は料理を盛る皿のことでありコップやグラスには別に漢字がある、ここの大意は三晋が知氏を滅ぼしたに当って趙襄子が最も怨みを含んでいたので一番かんばったところ主人公の仇敵になってしまったというもの、將其頭は三晋の先頭に立って知氏を討ったの意、為飲器は知氏の領地を併呑する受け皿になった。知氏を分つの分つはもちろん攻め滅ぼしたということ、その後にその領地を三晋で分割したからそれも含めて分つと表現した、この分つは次の最の字と連係する、最はいちばんの意だが乱暴に取るという字でもある、飲の字には怨みを飲むなど内に含むの意があり最も知伯を怨むの怨の字と連係している、つまり最も知伯を怨むの文節は最もがめつく飲み込むの文節が続くことを予定したもの。 ─
 ─ 春秋戦国の兵法の定石として、布陣は川を前に、山を背にする。有名な『背水の陣』は型破り、場合の妙手。この主人公の山中逃避は定法どおりに敗戦場から脱出している。『遁逃』は遁も逃ものがれる意。遁は隠遁の遁、ひとりで身を隠す意味合いがある。『己を知る者』は今の日本で用いる『知己』より限定的、理解者や親友。有名な『管鮑の交わり』は『史記』文中には『我を生みし者は父母なれど、我を知る者は鮑氏なり』と出ている。以上のように、『自分を知る者』は通常は交友関係に用いる語法。ここはそれを主従関係に流用した例。しかし適切だったかどうか。『士』は封建的な身分名称、戦国期以降は時代劇でしか言わない。女の『容』は美容、この文の場合の訓読みはかたちづくる、また、かおつくるとも。 ─
 ─ 主人公の仇討ち作戦、第一弾は刑務役夫として趙襄子の御殿に潜入し、接触する機会をとらえて暗殺という段取り。おあつらえむきに利用者が無防備になりがちな厠の壁塗り作業に就く。ところが厠に立ってきたはずの趙襄子は思いもよらず警護付き、そして作業人足の中の主人公を見かけたとたんに虫が知らせるという勘の良さ。その暗殺気配を鋭く察知した理由については明記なし。『襄子如廁心動』の数文字で簡単に描かれる。たしかに、下層の力役人足の中に士階級の気位と学問教養そして鍛錬した腕っぷしの主人公とくれば、異彩を放つことは暗黙の了解か。ちなみに、その『襄子如廁心動』の句から『執問涂(塗)者,則豫讓也。』までの文型は見ればわかるとおり後文で少し変えて反復される。いわば後段のための布石。 ─
 ─ 捲土重来に向けた凄まじいまでの準備。『自ら刑す』も一連の変身術のひとつ。江戸時代の犯罪者が二の腕に入墨を施されていたように、古代中国では額に入墨された。それを自分で偽装したことがここの『自ら刑す』。ただしそれは統一法治国家秦帝国時代以降に全国で施行が見られる制度。まだ法家思想が生まれていないこの物語の時代、群雄割拠する春秋末戦国初期の天下に法治国家と呼べるものは一つもなく、はたしてそもそも犯罪歴(前科)という概念が通じるかどうか。 ─
 ─ 友人と主人公の議論。論理学は戦国時代中期の名家という思想家一派が発達させたとされる。代表人物は公孫竜や恵施。文学上では論理的叙述の発達は前漢初期以降。最も成功した例は『韓非子』。議論形式としての成功例は『荘子』と『孟子』。以来、議論形式は漢籍文学の見せ場、著作者の腕の見せ所となる。 ─
 2. 後段
 ─ 後段の始まりはこの場面説明の文から。起承転結で言うと転にあたる部分の始まり。ここまでは矢継ぎ早に場面が切り替わり、テンポよく物語が進行してきたが、ここからの後段はこの文の場面を離れないまま物語が終幕する。文字の分量で見ても、初めは処女の如く文字数少なに控え目で、終いも脱兎のごとく簡潔に済ませて締め括り、中盤に多くの文字数を投じている。そうした構成面でもいろいろと考えさせられ、この名文は抜かりがない。─
 ─ 原文『趙襄子面數豫讓』は先達による通例の訓読では『趙襄子、まのあたり予譲を数(せ)む』。それが模範解答、試験で〇をもらうにはそれ。しかし趣味の漢籍学では、現代語訳ではない訓み下しで『面』を『目の当り』とは訓する気がしない。また、『数』を『責める』と読むことも一般読者には飛躍的すぎる。原文が『面責』ではなく『面數』である以上、この場合の『数』の字にはどのみち説明が必要、意味不明に『数(すう)す』と訓じておくほうが潔い。『面責』は漢字熟語、面と向かってなじる、しかし『面数』は『面する』と『数する』で別個の二語。『趙襄子、面して』は主人公に直接話しかけた。前出、主人公の仇討ち作戦第一弾のくだりでは、怨敵知伯への意趣返しで主人公を国士だと持ち上げたが、本音ではトンマなチンピラ風情だと軽んじ、直には話していない。『予譲に数(すう)す』の『数』は『悪事の数々を数え上げて糾弾する』の『数』、犯した悪事を当の罪人に対して一つ一つ列挙する。その用法から『人に数す』と慣用修辞して『数』の字は『責め立てる』の意味を帯びる。よって『予譲を数(せ)む』は花〇の模範訓読。しかし趣味の漢籍学ではあえて上記訓読とした。『趙襄子、まのあたり予譲を数(せ)む』では原文『面數』と『面責』との違いがぼやけ、趙襄子の心境変化が浮かび上がらず、そしてこの文学作品のクライマックスに向かう盛り上がりが伝わってこない。原文『趙襄子面數豫讓』は趙襄子が面と向かって主人公を問い詰めたのではない。名君がこの場面に至って国士を認めたのであり、怨敵知伯には臣従して自分には仕えようとしなかった主人公の価値観に(対等の人間・知己の間柄として)恨み言をこぼすのであり、そしてもはや変えようのない悲劇の終局へなだれ込むのである。 ─
 ─ 『喟然(きぜん)』は深くため息するさま。『嘆泣(たんきゅう)』は嘆く泣きかた。どちらも読者の思い入れ次第に任せる簡略表現。ただし主人公を対等に扱う趙襄子の発展心理が読み取れなければ読み込み不足、その場合はずーっと戻って趙襄子の最初のセリフから読み直す。『子は自(みづか)ら計(けい)を為(な)せ,寡人は子を舍(ゆる)さじ』、この『計』は合計である。この文の『計(けい)を為(な)せ』は足し算しろ、合計数を出せ、そして飲み屋の酔漢の決めゼリフ『おーい、お勘定!』、モダンな外食産業ではお会計。お互いの帳簿を突合わせると言っている。趙襄子の帳簿の記載内容はその直前の文言、合計した帳尻はこのセリフ部分の最後に出てくる処刑。主人公が計(けい)を為(な)した結果の帳尻も同じになるはずだと趙襄子は確かめている。言い換えればお互いの総括を出し合うこと。さて帳尻の『寡人は子を舍(ゆる)さじ』は一度は赦免したから二度目はないという事務的・儀礼的な皮相な話ではない。趙襄子は再度の襲撃計画に立腹しているのでもなく、主人公を裁判する主君でもない。『彼義士也,吾謹避之耳 = 彼は義士なり,吾、謹みて之(これ)を避けるのみ』以前はそういう余裕も見せていた趙襄子、この再襲撃の場面で見直すまでは主人公を侮っていたのである。 ─
 ─ 主人公によることわざ紹介、第二弾は『明主は人の義を掩(おほ)はず,忠臣は死を愛(おし)まずして以(もつ)て名を成す』。しかしこれは本当にことわざなのか。『史記』の刺客列伝では少し変えられている、『明主は人の美を掩(おほ)はず,而(しか)うして忠臣は名に死するの義あり』。これに関する説明はここでは先送りしておく。原文『忠臣不愛死以成名』、この『愛』の訓は『愛(おし)む』が通例。『忠臣不愛死』で『忠臣は死を愛(おし)まず』。しかし『命を惜しまず』ならともかく、『死を惜しまず』は変な日本語。かといって『忠臣は死を愛(あい)さず』と読めば意味があべこべ。『愛』の字は分解してみると『心』がいっぱい詰まっている字、古くは激しい心の動揺の全般に用いられた。『大好き』だけではなく『大っ嫌い』も『愛』。そこでここの『忠臣不愛死』は死を惜しむかどうかはどうでもよく、忠臣は死というものに心を動揺させないの意。原文『雖死不恨』、通例の訓読は『死すといへども恨みず』。恨みずは現代の言語感覚では不自然だが、これは動詞『恨む』が上二段活用から四段活用に転じたため。訓読文は文語体、文語は平安文学あたりの文法に則る。 ─
 ─ 前文、主人公の引用したことわざのような文言はことわざではなく、この晋国で最も有名な英明君主、晋国の生んだ覇者である晋文公と宦者勃鞮(履鞮)の故実である。『史記』の晋世家に出ている。そこで、続くこの文では趙襄子がその故実に因んだ予譲辞世の語りを義であるとする。また前文に戻って、主人公の引用した文言は晋文公と宦者勃鞮(履鞮)の故実だから『明主は人の義を掩(おほ)はず,忠臣は死を愛(おし)まずして以(もっ)て名を成す』となっているが、この文言は明主と忠臣の組み合わせを替えればさまざまなヴァリエーションが可能であり、その都度、それぞれの主従の物語に応じて語句も換わる。『史記』刺客列伝の引用がその例。『史記』の例は引用というより、この『趙襄子と予譲』の故実(ほんとうは後世の創作文学)に適合させた改変かもしれない。 ─
 ─ ちょっと前の文に戻る。趙襄子泪ながらの処刑宣告に返した主人公の長い辞世の語り、その結語は『非所望也,敢布腹心』だった。この『非所望』は従来まちがって理解され、正しい解釈は皆無。生殺与奪の権握る趙襄子に対して謙譲しながら着物を所望したと理解されているが、それでは謙譲ではなく俘虜囚の卑屈。そして『布腹心』。腹心は腹の底の本心だが、そうした赤心をいう表現は数多くある。そんな数多くある中で腹心は腹心の部下などと言うように、心の支えとなる人物を引き連れてくる語。ここでは晋文公と宦者勃鞮(履鞮)の故実がモチーフなのだから、主人公の腹心に忠臣勃鞮(履鞮)がいることは言わずと知れる。忠臣勃鞮(履鞮)は『死を愛(おし)まずして以(もつ)て名を成したり』という古人なので、それを腹心ひそかに隠していたという主人公にとっては内心憧れる忠臣、理想とする忠臣。そこで直前の句『非所望也』の謙譲はここに係る。自分ごときくだらぬ者、主君のために殉死もできない、仇討ちもすぐ捕まる、こんな腑抜けた男、かの晋文様に命懸けで忠義立てしたという古人殿の真似をしたいなどとはやはり分不相応で望外でしょうか...と謙譲している。 ─
 ─ 現行本はこの結末文で終わり、『史記』も同じだが、別の結末も書かれたことが知られている。...主人公の勇ましい最期を見届けた趙襄子、馬車に戻ろうとして、すぐに自身の異変に気づく。自分には傷もないのに、着ている物にべっとりと血が付いていたのである。それはちょうど先刻主人公に与えた着物の斬られた部分だった。怪しく思いながら馬車に乗る趙襄子、しかし今度は周りの者たちがすぐに彼の異変に気づく。車上で身を突っ伏していたのである。慌てて皆が駆け寄ると、まだ馬車の車輪が一回転もしないうち、趙襄子はすでにこと切れていた... ─

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