『晋畢陽の孫予譲』
解題

( 2. 08 ⁄ 15 追記 )
 訓読文を大幅に手直ししました。原文の一部も改めました。
 訳文などの全面的な見直しについては今後の機会を待ち、しばらくは自戒のためにも放置いたします。
 この攻略ページの見どころは以下の二点だけです。
○ 原文「及三晉分知氏、趙襄子最怨知伯而將其頭以為飲器」の「飲器」を論理的に説明した。
○ 原文「豫讓曰、臣聞明主不掩人之義、忠臣不愛死以成名」が故事に拠っていることを指摘した。
 第一点の「飲器」は酒器か便器かの二説が言われていました。しかしこの飲器の二文字は知氏の領地を併呑する受け皿の意です。
 『史記』版の原文ではこうです。「及智伯伐趙襄子、趙襄子與韓魏合謀滅智伯、滅智伯之後而三分其地。趙襄子最怨智伯、漆其頭以為飲器」
 要するに『史記』は原作の「而將」を「漆」に置き換えるだけで、とても残虐な腹いせが行われたかのような印象を効率よく演出しています。
 従来の本原作の解釈は『史記』の巧みな改変に引きずられ、固定観念のせいで誤解していたようです。
 本作品の該当文は冒頭の第一文節が「及三晉分知氏、」で、文末までその知氏の遺領遺産の分配について述べているだけです。
 ただし前後の文が主人公予譲の紹介文ですから、この遺領分配の一文も、あくまで主人公の仇となってしまった理由を遺領分配の件から説明しています。
 以上の大意を踏まえると、「飲器」は「併呑の受け皿」の意です。
 この文は「最怨」の二字が巧妙です。韓魏趙のうち誰が最も知伯を恨んでいたかなんて、分かりませんし、あまり問題にする必要もありません。
 「最怨」の最の字には取の字が含まれています。そのため、最もという意味の他に、取るという意味もあります。つまり、趙襄子が最大に取ったことをいう文であると、この最の字で保証しているのです。
 「最怨」の怨は「飲器」の飲と縁語です。恨みを飲むと言います。それもあって「呑器」ではなく「飲器」です。呑の字は喉です。
 趙襄子が最も怨みを飲んでいたため、知氏討滅党の先頭を趙襄子軍が務め、そこで知氏の遺領遺産分配では大威張りでいっぱい取って、溜飲を下げたものの、一方では新たに予譲の怨みを飲んでしまったようなものだ、という文意です。
 第二点については晋文公に対する刺客となった宦者勃鞮の故事を述べています。
 本作品は戦国策にある別の作品の続編という位置付けで、主題としては勃鞮の古伝承を晋国三分割の時代に移したという仕掛けです。
 本作品では最後に予譲がなぜ趙襄子の着物を求めるのかという点も謎でしたが、主題から容易に判明しました。刺客勃鞮も文公の着物を斬っていたからです。
 また、前段の最後にある友人との論争における予譲の主張も、要するに勃鞮のことを言っています。
Aug 15, 2020 - サイト管理人
( 元の解題 )
 「晋の畢陽の孫である予譲」この話は『史記』刺客列伝の中にも同じ内容で収録されています。
 『史記』では刺客物語の一つとされ、刺客に分類することは当時の用語として間違いでもないようですが、厳密には主君の仇討の物語です。
 そこで、殺人のために傾ける執念の凄まじさにもまして、この刺客の人生哲学である忠義というものに焦点が当てられます。
 舞台設定はまだ戦国時代とも言えない春秋末期。『戦国策』の中では最も古い時期を舞台とする話の一つです。しかし史実かどうか。漢代初期、誰もが知る春秋末の晋国分裂という大騒動を舞台として、憎まれ者と正義の味方とを取り替えるという逆説の戯作が試みられたのかもしれません。
 憎まれ者は晋国の知伯。『春秋左氏伝』『国語』にも多く書き立てられる悪役です。
 晋の国は覇者となった文公以来、春秋時代の終わりまで覇権の座にあった大国といわれます。
 やがて大臣たちの権勢実力が増大するにつれて君主の立場は弱体化し、ついに大臣たちが君主に取って代わるのでした。通説ではこの晋国の下剋上事件を戦国時代の始まりとします。
 当初、晋国の有力大臣は六家、知氏趙氏魏氏韓氏范氏中行氏でした。六卿。早く范氏と中行氏が国を追われ、勝ち残りの四家では知伯の知氏が最も強大だったとされます。しかしひそかに手を結んだ三氏(趙魏韓)によって知伯は滅ぼされました。三晋(晋を分割した戦国期の三国)。
 『戦国策』には知伯の増長ぶりを書いた話もあります。
 韓・魏・趙の三氏はそれぞれ知伯から良い土地の供与を要求され、苦慮しました。しかし韓氏と魏氏は結局すなおに知伯の横暴な要求を容れ、土地を割譲します。
 おとなの分別を働かせたのでした。
 知伯は貪欲、貪欲は限りなく、やがて多くの敵を作る元凶となる。今の強大な知伯を侮り、要求に従わず、敵に回しても、あっという間にこちらが滅ぼされるだけ。むしろ要求に従ってちょっとばかりの土地をしばらく知伯に預けておき、多くの敵が生じてから彼らとともに謀って知伯を滅ぼすなら、土地を取り戻せるだけではなく、しばらく預けた土地の利息のように知伯の土地も手に入れられる。
 韓氏と魏氏はそうした大局的な見通しを立てたのです。そして実際そのとおりになります。
 一人、趙氏の趙襄子は一時の見せかけにしても理不尽な要求に屈することを良しとせず、知伯と敵対することになりました。
 かくして趙襄子が知伯を滅亡に追い込んだ立役者ということになり、そのため知伯の家来の忠義者から仇として付け狙われる立場ともなるのでした。
 さてその忠義者、実はもとから男気のある忠臣だったわけではないようです。知伯が韓魏趙氏の三晋に攻め滅ぼされるさなか、彼は主君と運命を共にせず、山中へ遁逃し、自分だけ助かっています。
 もっとも、いったんは命からがら人間社会と隔たる山中を一人淋しく逃避行したものの、いろいろ思索がはかどりそうなその状況で彼の思考は一つの言葉に占められていきました。
 「ああ、士は己を知る者の為に死に,女は己を悅ぶ者の為に容る(かたちづくる)」
 知伯はこの忠義者にとってただの主君ではありません。己を国士として見込み、それにふさわしく厚遇した、よく己の真価を知る主君でした。
 それほど主君に見込まれ、可愛がられていながら、憎まれ者の貪欲なその主君が討伐されると、いったんはそれを見捨てて自分だけ逃げています。
 そうした保身は戦国時代の身の振り方です。
 「良禽は木を択ぶ(賢臣は主君を択ぶのたとえ)」
 後文にある友人の説諭を見るとおり、この忠義者は安定的な封建時代の人ではありません。群雄興亡、多士済々、世の中も倫理観も流動的で何が美徳かわからなくなった戦国時代に、あえて忠義という古めかしい生き様を選択した奇人なのでした。
 豫讓拔劍三躍、躍りあがって仇の着物を三度斬り、この忠義者の行動は最後まで芝居がかった酔狂なものになります。彼が時代劇を演じているためです。
 さて、遁逃した山中で主人公の心に湧きあがった「士は己を知る者の為に死す」という言葉。
 いったい古今のどれほど膨大な数の上司がこの忠義物語のこの決めゼリフを実用的に人心掌握術の極意として暗記してきたことでしょうか。
 名調子のアフォリズムですが、次に「女は己を悅ぶ者の為に容る(かたちづくる)」という解説的な対句が続きますから、きっと中国古代の俗なことわざだったのでしょう。
 実際的な経験則は含んでいます。しかし人類普遍の真理ではありません。「士」は古き良き安定的な封建体制社会で確立したご身分です。
 ところで、戦国時代に封建時代を演じているこの時代劇には、一つの謎が残されていました。
 主人公はなぜ最期に仇敵の着物に撃ち掛かることを懇願したのかという点です。
 たとえばこの文学を漫画化してたいへん功績のある巨匠横山光輝、マンガ界の巨匠は主人公が直接仇敵から手渡されれば騙し討ちにするつもりだったと解釈しました。
 古き良き時代の美徳を追求してきた戦国義士にして騙し討ちはいかがなものかと思わないでもありませんが、この説は他の研究者からも出されているので、案外これが正解なのかもしれません。
 要するに、研究者泣かせの結末で、正解のようなものはないと思われてきたようです。
 しかし、『史記』にも収録されているこの物語、その結末の謎を解くカギは意外に灯台下暗し、「晋世家」に見つかります。春秋時代晋の国の覇者晋文公と宦者勃鞮(履鞮)の故事です。
 晋文公は19年間にもわたる亡命流浪の後に覇者となった波乱万丈の晋国君主。
 その数奇な運命は例の傾国の美女とされる驪姫の乱から始まりました。
 驪姫の企みで晋国辺境の城へ追い払われた晋文公、太子だった兄が殺された後、魔の手は辺地の彼にも及びます。刺客は宦官の勃鞮(履鞮)、れっきとした晋国君主献公の君命ながら、ひそかな暗殺でした。
 問答無用で撃ち掛かる宦者勃鞮(履鞮)、しかし文公の着物を断ち斬るにとどまり、晋文公は斬り取られた着物の端を刺客の手に残し、あやうく生垣を飛び越えて逃亡、19年間にもわたる亡命流浪へ。その亡命中、宦者勃鞮(履鞮)は再び文公暗殺のために差し向けられています。
 さて19年の後、文公は晋に帰国、即位しました。反対派が地下で文公暗殺を策謀、宦者勃鞮(履鞮)はその陰謀を聞き付けます。
 彼の立場にしても文公は晋国の新君主、すみやかに暗殺計画を通報することが忠義の道です。しかしまだ文公に仕えていません。そして仕官を願い出ても、二度までも文公の命を狙った宦者勃鞮(履鞮)、むしろ昔日の恨みを返されて処刑されかねない立場でもあるのでした。
 勃鞮(履鞮)逡巡。けれども常に時の君主に忠だった彼には臆するいわれがないのです。とはいえ案の定、仕官願いは聞き届けられませんでした。捕らえられることはなかったものの、冷酷に門前払いされました。
 さらに文公は使者を遣わして追い打ちの痛罵、辺境城ではあわや着物を斬り、亡命中も主君から三日の内に首を取れと命ぜられていながら、たった一昼夜の神速で駆け付けて襲いかかる、そこまで意気込んで吾を殺したがっていたくせに、何を今さらおめおめ仕官願いか、と。
 もののわからない新君からの伝言に勃鞮(履鞮)は失望するものの、それだけ個人的怨恨に執着しながら捕らえもしなかったことは意気に感じ、しっかり反論を返すと、例の危急の陰謀もそれとなくほのめかします。
 使者は戻ってそのままを復命。
 文公の腹立ちは収まりません。まだ弁解するとは生意気な勃鞮(履鞮)め──
 しかし高齢になってから即位した文公、怒りに身を焼くほどは激昂しません、そして喜怒哀楽の感情も長続きせず、やがて刺客の言い分を落着いて再考します。
 たしかにそのとおり、逆に暗殺の君命を帯びながら標的である自分にも親身にすれば、それこそ国のことより我が身のためを図る二股膏薬の賊臣、問答無用で非情に自分を襲った勃鞮(履鞮)めは常に忠臣だ。すると今、謎めいた話でこの新君に何を伝える...?
 文公ははっと忠臣勃鞮(履鞮)の義と自身の危険に気づきます。再び使者を呼びたてました。
 「すぐに勃鞮(履鞮)を呼べ! すぐに呼び出せ! 勃鞮(履鞮)を召し抱える。すぐに捕まえて来い!」
 こうして文公は新たに召し抱えた忠臣から逆賊一味の計画を教わり、災厄を未然に一掃します。
 さて、時代劇で命懸けの仇討ちを演じる晋畢陽の孫、結末では長い辞世の言葉を述べ、それはことわざのような格言で始まっていました。「臣聞く、明主は人の義を掩(おほ)はず,忠臣は死を愛(おし)まずして以(もつ)て名を成す」。
 これはことわざでも格言でもありません、晋畢陽の孫が聞いていた明主文公と忠臣勃鞮(履鞮)の故事です。「人の義」は差し迫る危難を告げようとした忠臣勃鞮(履鞮)の義、「明主は掩(おほ)はず」はそれを個人的な恨みごとで掩い隠して無下にするということがなかった晋文公。「忠臣は死を愛(おし)まずして以(もつ)て名を成す」は捕らえられて処刑されるという危険を冒して功名成った忠臣勃鞮(履鞮)。
 仇敵の着物に撃ち掛かることを懇願するという謎の展開も、この故事に因みます。それは仇敵である趙襄子に対しても覇者晋文公のようにという祝福の意味なので、襄子は快くその言葉を義として承諾しました。
 唐突な「今日の事」という句は晋文公勃鞮(履鞮)の因縁が昔日の事、対義語であるそれを想起させるための「今日の事」。
 さて、この仇討ち時代劇は当初からたいへん人気があったようです。漢代初期の名作文学を紹介しているとも言える歴史小説集「史記列伝」でも取り上げられました。そして物語の切り出しが晋畢陽の孫という主人公の出自紹介ではないなど、刺客列伝版でも多少の変更を加えられているように、人気文学であるため、もともとの原作から前漢末の『戦国策』に収められて現在の普及版に至るまでの間に複数回の改変を受けたことが疑われます。
 現行本とは異なる結末も書かれていたそうです。
 主人公の長い辞世の言葉は『史記』にもほぼそのままの内容で見ることができます。つまり晋文公と宦者勃鞮(履鞮)の故事を引き合いに出す結末は非常に早くから盛り込まれていたのでしょう。
 ただし『史記』では主人公の語り出しの句がすこし改変されます。「臣聞く、明主は人の義を掩(おほ)はず,忠臣は死を愛(おし)まずして以(もつ)て名を成す」ではなく、「明主は人の美を掩(おほ)はず,而(しか)うして忠臣は名に死するの義あり」。
 おそらく『史記』ではこの文言にこの物語の仇敵と主人公の立場を盛り込んだのでしょう。そしてこの改変後の文言でも晋文公と宦者勃鞮(履鞮)の故事は充分連想できると思っていたのかもしれません。
 しかしこの戦国義士仇討ちの物語は『戦国策』よりも『史記』で知られることが多く、そしてついにこの二千余年のあいだ、『史記』により改変された文言からは結末場面がその故事を秘めていることは気付かれませんでした。
 『史記』の見込みちがいと言うか、ここでも罪作りを犯してしまっている史記列伝。

Sep 22, 2017 - サイト管理人

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