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『ダッタン人の踊り』

このページの構成

【概要】

初演: 1890年
原題: ロシア語
国際: "Polovtsian Dances"
作曲: ボロディン
原典: ロシア中世文学
備考: 歌劇『イーゴリ公』の中の音楽。

【解題】

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 ボロディン作「ダッタン人の踊り」あるいは"Polovtsian Dances"あるいは「騎馬民族の舞宴」
 (オペラ『イーゴリ公』または『西遊イーゴリ記』または『イーゴリ匈奴物語』第2幕より)

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 ─ ボロディン「ダッタン人の踊り」 ─
 カラヤン ⁄ ベルリンフィル


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 【 佳曲薄命 】

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 日本でロシア五人組といえばムソルグスキーとリムスキー コルサコフが有名です。曲としては『展覧会の絵』や『禿山の一夜』、そして『シェエラザード』。
 欧米ではそれに加えてボロディンの曲も人気のようです。
 のこりの二人についてはまだブレイクした話を聞きません。
 日本ではちょっと愛が少ないボロディン、五人組の最年長でしたが、最も遅く参加したそうです。
 この人は軍医や有機化学物質の研究などいわゆる理系方面を本職とした人で、ついに職業作曲家にはなりませんでした。
 最も名高い作品が歌劇『イーゴリ公』の第2幕にある「ダッタン人の踊り」です。この歌劇の制作は交響曲第2番と同時、1869年から取り掛かりました。
 ボロディン自身も当初から凄い音楽になりそうという手応えがあったようです。しかしすごい音楽に取り組む時間がある人ではありませんでした。未完に終わります。
 五人組作品の管財人役となったリムスキー コルサコフが教え子のグラズノフと協力して故ボロディンの大歌劇に始末を付けました。
 初演はそのため作曲者死後の1890年、故人の出生地である帝都ペテルブルク、マリインスキー劇場。
 20世紀初頭にロシア国外で活動したディアギレフのバレエ リュスがボロディン歌劇『イーゴリ公』の第2幕にある「ダッタン人の踊り」をバレエに仕立てて興行し、西洋世界にお披露目します。振付はフォーキン。まだ伝説のニジンスキーも在籍していました。

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 こうして舞台曲のレパートリーの一つとして欧米の音楽業界人に知られた「ダッタン人の踊り」。
 このボロディンの舞台曲は20世紀後半以降になるとポピュラーなメロディとして世界の一般大衆にも浸透しました。ただし「ストレンジャー イン パラダイス」という全く別の曲名で知られます。
 1950年代前半、米国ブロードウェイでボロディンの音楽を取り入れた舞台ミュージカル『キスメット(Kismet)』が当たりました。すかさず映画にもなる盛り上がりでした。

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 その当てた舞台の代表曲が「ストレンジャー イン パラダイス」というポップスで、それは「ダッタン人の踊り」から出だしのメロディを取りました。
 全5部から成る「ダッタン人の踊り」、その出だし第1部の静謐優美なメロディです。
 ちなみにキスメットはアラビアンナイト物だったそうです。20世紀初頭の初演から繰り返し改作され、ボロディンを取り入れた上演はキスメットの第4版でした。

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 上の一曲だけではなくほぼ全曲をボロディン音楽にしたという上演だったらしく、古い舞台タイトルにボロディンでテコ入れを図ったというより、おなじみのタイトルでボロディン音楽を売り出そうとしたのかもしれません。
 ニューヨークにとどまらずロンドンの公演でも評判を取ります。また、劇中そして映画の中で歌われる「ストレンジャー イン パラダイス」はたちどころに米国ショービジネス界でカヴァーが相次ぎ、そうした競作林立も大西洋の対岸に飛び火し、単独のスタンダード ポップスとして欧米一般に浸透しました。
 日本では1960年代になってロシア五人組ボロディンの「ダッタン人の踊り」がお披露目されたようですが、それよりは圧倒的に「ストレンジャー イン パラダイス」というスタンダード ポップスとして認知されているでしょう。
 ところでクラシック曲「ダッタン人の踊り」は別のくだけた愛称を覚えただけでは十分ではありません。
 この曲の世界的な通称は”Polovtsian Dances”、それを「ダッタン人の踊り」と訳している邦題はクイズさながらなので、日本語圏ではそのあたりの事情を呑み込んでおく必要もあります。

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 この曲は歌劇『イーゴリ公』の一部として作られました。
 歌劇の内容はロシア中世から伝わる「イーゴリ遠征物語」という民族的古典が原作だそうです。
 古典の成立時期についてはたいへん古いとしか確定していないらしいのですが、歴史資料にも書かれている12世紀末の史実を描いた文学作品だといいます。
 題名どおり遠征する話です。遠征する主人公がロシアのイーゴリ公、彼の領地をはじめロシア人領主の土地がたびたびポロヴェツ部族の襲撃掠奪に遭っていたため、その遊牧異民族の本拠を討とうとしました。
 つまりイーゴリは全ロシア人のために孤軍遠征に出た英雄的な領主です。古典は彼が敗れて捕虜となり、やがて脱出帰還するまでをロシア側の視点で物語り、ロシア人領主に団結協調を訴えます。

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 歌劇第2幕にある「ダッタン人の踊り」は捕虜となったイーゴリが敵族長のもとで過ごしているくだりです。
 イーゴリの息子もともに囚われますが、息子は敵中で暮らしている間に族長の娘と恋に落ちます。族長も二人の仲を歓迎しました。問題は頑ななイーゴリ親父。
 そこで息子とポロヴェツ部族はイーゴリ公の頑固な敵意を解こうとします。敵地に囚われる降将の固い意思を翻させるために催される”Polovtsian Dances”。

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 さて邦題のダッタン人はもちろんポロヴェツの翻訳です。古くから漢籍に中央アジアの民族の総称が韃靼人とありました。
 その韃靼はどうやらタタールという語を音写したようです。外来語の音写ですからもちろん中国人が勝手に呼んでいたのではありません。
 つまりダッタン人の踊りという邦訳は世界史的にも筋が通っている立派な仕事だったようです。
 一方のポロヴェチアンは遊牧騎馬民族タタールの一部族名なのでしょう。しかし地方的な語だとしても現にポロヴェツと戦ったと古典文学にも歴史資料にもあるようです。

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 ところでポロヴェチアンを含む韃靼人は一時期、チンギスハンに統率されて組織的に一段と盛大に中央アジアから猛威を振るい、第3代フビライハンの世界帝国に至り、遠く西欧諸国にまで悪魔の軍団という威名を轟かせました。
 そして「イーゴリ遠征物語」作者の願い虚しく、物語られた捕囚事件の数十年後にロシアはモンゴル軍に呑み込まれています。
 その時期にはモンゴル人や元国と称されました。日本にも来襲した元寇は13世紀後半。それが鎌倉幕府倒壊の遠因になります。

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 また、遊牧民ポロヴェツの居留地で囚われの日々を送り、Polovtsian Dancesで慰められることもあったというイーゴリ公。ポロヴェツを匈奴に置き換えると、漢代以降の東洋の古典にも同じような身の上をかこった華人の話がごまんと見られ、そこから故国に生還できた伝承もあります。
 言葉の壁さえなければ、意外にボロディン”Polovtsian Dances”があつかう歴史大河ドラマは東海の島国でも古くからおなじみのタイトルでした。
 歌劇『イーゴリ公』を書き上げることができなかった寡作家のボロディン。ほかに、『中央アジアの草原』と題した作品などが残っています。

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Aug 08, 2018 - サイト管理人

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