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月やあらぬ-在原業平

このページの構成

【概要】

詠歌: 862(±4)年
古今集: 905年 (912年)
備考: 
在原業平: 825年-880年
藤原高子: 842年-910年
紀貫之: 866年-945年

【解説】

 【 Greatest詩歌 1 】
  ー 元カノ ー

 「’月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして’ - 伊勢物語 第4段、古今集 恋歌5」
 詠み人は『古今和歌集』によれば在原業平朝臣。より人気の高い出典『伊勢物語』では、「むかし、...人、~」と匿名ですが、物語を虚構化するためのボカシだと言われます。
 六歌仙の一人とされるほどの歌人だった在原業平はまた同時に情事のデパートといえるほど行動の人でもあったようです。
 まだ王朝文化が花開かない平安初期の西暦9世紀、出自は天皇一族ながら、業平自身は臣籍降下した貴族の子として育ったそうです。
 いわばこの上ない貴種を持ちながら自由な私生活がある貴族の身ですから、高貴な女性でさえ憎からず思う貴公子でした。のちの『源氏物語』の主人公が実在していたようなものです。
 臣籍降下のせいか、彼は貴族社会の出世にはわりと淡白だったらしく、恵まれた身の上を周知のとおり恋愛へ向け、そして和歌に詠みます。
 その生きざまは彼の作歌ともども当時の貴族社会で愛され、藤原氏が出世主義・権勢主義の典型と見なされるなか、次第に色好み業平像はそれと対峙する王朝風流人の理想として多くの追随する貴公子たちを生み出します。
 『源氏物語』はそうした在原業平以降に出現する好きもの貴公子たちから主人公像を着想し、彼らが彩った華麗な平安貴族社会を今に伝えます。
 功の天下を蓋う者は賞されず -中国古代のことわざ。
 資料の少ない当時に業平の影響力は大きすぎ、今ではしばしば誤解され、よく見過ごされるのかもしれません。
 しかし裏返して見ると、資料の少ない当時なのに業平関連の物語が異常に多く書かれているとも言えるでしょう。
 「'世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし'」
 彼の和歌と夜回りが日本文化史の方向性に強い作用を及ぼしたことは間違いなさそうです。
 『伊勢物語』は半分がその業平の生涯を物語化して歌に添えた読み物で、古来愛読され、特にこの歌 ’月やあらぬ...’ の段の人気が高く、他に「あづま下り」関連や「伊勢斎宮」との禁忌の情事関連も人気があります。
 記録によると、業平は二十代のころ、昇進が止まり、官職も無くなります。世を儚んでの都落ちとされる『伊勢物語』あづま下り関連の物語はその頃のようです。関東に「業平」の地名を残し、東京は浅草の「言問橋」もそれに便乗しました。
 「'名にしおはば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと'」
 しかし三十代半ばをすぎた西紀860年代から再び京の官職に復帰し、その後はそれなりに昇進を重ねます。
 この歌 ’月やあらぬ...’ の『伊勢物語』第4段は不遇の二十代も遠く過ぎ去った西紀862年ころ、業平38歳ころと推定されます。物語のなかでは「泣く~~帰りにけり」と可哀相な業平ですが、意外に仕事のほうは順風が吹いていたようです。常識的に想像すれば、女遊びしているくらいですから、それはそうでしょう。
 この時の恋のお相手はこの歌の詞書(ことばがき)や物語にあるとおり、「五条のきさいの宮の西の対にすみける人」のちに二条の后(きさい=きさき)となる藤原高子。
 後世から見ると、まだ入内まえの一貴族の娘だったとはいえ、のちに天皇に嫁し、将来の天皇を産む人との密愛ですから、歌や物語の素晴らしさに加えて、平安時代にはその釣った魚の大きさでも注目されたのでしょう。
 『古今和歌集』の詞書に「ほいにはあらで」とあります。「ほい」は「本意」で、後世の意味ではまじめな気持ちや遊びのつもりなどと「意」に重点を置いた解釈も可能ですが、この場合はどうやら「本」に重点を置いて、正式な手続きと解します。なにしろ勅撰集の詞書ですから、業平の気持ちの問題を言う言葉なら削除するでしょう。
 すると、のちには入内する藤原氏の高貴なご令嬢なので、藤原氏の方針で「ほかへかくれにける」という処置を取られてしまったからには、正式に娶ったわけでなし、藤原氏には恨まれたくなし、まだ冠位の低い業平はやはり「泣く泣く」帰るしかなかったようです。
 そのへんの業平の恋か飯の種かという苦しい状況を『伊勢物語』第4段の記述は「なほ憂しと思ひつゝなむありける。」と伝えています。この物語を芸術化するため、そのへんの所帯じみた生臭い話題は「...(と思ひつゝ)なむありける」であっさり省略です。しかしこの引き裂かれた恋の真相にはもっとずっと身につまされる保身的な処世やお公家社会の力関係が潜んでいるようです、常識的に想像すればあまりに当たり前なのでしょうが。
 要するに、もう業平もいいおぢさんの歳、何もかも捨て、またもや都まで捨てて、二十歳前後の深窓のお嬢さんを負ぶって逃げるには、あまりに分別がつくお歳になってしまっていたということでしょう。
 ちなみに『伊勢物語』第4段で「なほ憂しと思ひつゝなむありける」とある記述は『古今和歌集』の詞書では「えものもいはで、」となり、やはり業平の気持ちの問題は書かれません。
 『古今和歌集』では紀貫之の書いたかな序にもこの歌 ’月やあらぬ...’ があり、六歌仙のうちの在原業平を「心あまりて、ことばたらず」と評したうえで、その第一の標本としてこの歌を掲示します。
 後世、その「ことばたらず」が著しく誤解されます。
 貫之の六歌仙評の真意は歌仙たちそれぞれの特徴づけです。技術談義ではなく個性評であり、歌仙たちの作風から受ける印象が語られているだけです。
 「在原業平は、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、色なくて匂ひ残れるがごとし」
 実際に言葉不足だったら残り香も感じません。残り香にひかれてあれこれ省かれた言葉を探してしまう作風なのです。
 この歌 ’月やあらぬ...’ の解釈の中には、歌の中に出てこない恋人を詞書(ことばがき)や物語から補う解釈は芸術論としてインチキではないか、というお堅い態度も見かけないではありません。
 しかし、意外に恋人のご令嬢はこの歌の中にちゃんと登場しています。なまなましく「女」と詠まずに済む奥ゆかしい工夫を歌仙業平が駆使しているのです。
 下句-「我が身ひとつはもとの身にして」
 いっぱい仕掛けが潜んでいるこの歌の中で、特に注意すべきは下句の「もと」という語の機能です。
 上句の「むかし」という語が下句では「もと」という語に言い換えられます。
 「むかし」と「もと」は過去を指すことでは共通しますが、全然意味の異なる別語です。
 よく「もとのサヤに納まる」と言いますが、「むかしのサヤに納まる」とはけっして言いません。いつの、どのサヤに、なぜ納まるのか、まるでわからなくなります。「もと」を重ねて「もともと」とすると「本来」という意味ですが、過去という意味合いはますます薄まり、理由・縁・定めという意味合いがますます強まります。
 くしくもこの歌で「もとの身」と用いられるとおり、「もと」は人や物事の身の上に関して使われます。そして、「むかし」という語のように際限も無く過去へ行ってしまう鉄砲玉ではなく、バックアップされた保存ポイントに落ち着きます。
 この歌では、上句の「むかし」はどこまで過去にさかのぼっても構いませんが、下句の「もと」は「我が身」が一定の状態だった落ち着きどころに納まらなければなりません。
 その「もとの身」の納まりどころは「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつは」までの部分で厳格に規定されるため、何らかの形の恋人と共に過ごしていたころの我が身でしかありえません。
 つまり「...もとの身」までの部分で、下句の背面に待機していた恋人の存在が明確になります。
 上句-「月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ」
 月・春・春と、景観描写の名詞を2語、3回もたたみかける上句。ほんとにどれだけの超絶的な省略技法が尽くされた歌なのか、いまだ全容は解明されていません。
 貫之のように「匂ひ残れる」程度の感覚的な解釈でも、上句の「月」と「春」がそれぞれ「春のおぼろ月」と「妖しい月下に梅か桜が盛りの春」を想起させることはわかります。
 が、詠み人が知性を尽くした芸術作品ですから、「その心あまりて」といい加減な精神論では片づけられません。
 この上句を「去年の月や春」と解釈する本居宣長のような説もよく見かけますが、その「去年」はこの歌のどこから引き出せるのでしょうか、未だに確かな論証は聞いたことがありません。
 解釈が難しいということでよく学校授業の格好の題材にされているこの歌の上句、有名な ’...や~ぬ’ という2度たたみかける不協和音の語法はもちろん歌仙業平が計算の上で使っています。
 一見すると情景描写かと思わされるこの歌の上句は不自然な不協和音の語法のせいで解釈が半減され、情景描写の意義が半分になり、あとの半分は地下に潜ってしまいます。
 表向き、情景描写の上句と人事描写の下句が断絶している歌ですが、下句の「我が身ひとつは」の助詞「は」の無節操な機能により、地下では上句の影のような心理描写がかろうじて下句とつながります。日本文では「我が身ひとつは」のこの部分にそもそも格助詞は必要ないのです。
 つまり、...いや、このへんで切り上げましょう。とにかく歌仙の超絶技術が駆使されているこの歌 ’月やあらぬ...’、その秘技の全容解明が待たれます。
 「'おほかたは月をもめでじ これぞこの積もれば人の老となるもの'」
 和歌とくに相手へ送る恋歌はメールやチャットのように即製がふつうだったようですが、この歌 ’月やあらぬ...’ は「又の年」に「去年を恋ひて」詠まれているので、歌そのものは即興にしても、込められた思いは準備期間が長かったとも言えます。
 それにしても、なぜ「又の年」になってのこのこ出向いたのでしょうか。自身の年齢から考えて、歌仙渾身の恋愛悲歌だったのかもしれません。
 この歌 ’月やあらぬ...’ の見た目は紀貫之の言ういつもの「ことばたらず」の業平調で、あんまり色っぽく見えませんが、この歌の古来の人気ぶりを見る限り、伝説の色好み貴公子のあまりに短かった人生最高の恋愛の「匂ひ残れる」は誰でも嗅いでしまうようです。

May 7, 2016 - サイト管理人




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