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天武朝の帝紀伝説

このページの構成

【概要】

成立: 未詳
Region: Japan only
初出: 『古事記』序文
備考: 『古事記』序文では論理展開の枕でしかない話(独自解釈)。『日本書紀』が話を盛って古代ミステリーになる(憶測)。記紀の連係プレーと言えるかも(推論)。

【解説】

 【 古典の素朴な疑問 1 】

 Q。
1, 「帝紀」って何?
2, 「帝紀」はどこに行ったの?
3, 「帝紀」という本を稗田阿礼に暗記させて、それをまた太安万侶に書き取らせたといいますが、わざわざ暗記という迂回が行われた理由は?
4, 天武天皇は「帝紀」を書かせるはずだったのに、稗田阿礼に「帝皇日継」を暗記させてるって、なんか変。
 A。
1, 帝紀の正体……それはこっちが聞きたい。
2, 『古事記』『日本書紀』に取り込まれている、あるいはそれらの資料になったと言い放つ研究者もいます。しかし確実に言えることは『古事記』序文では稗田阿礼という代替策が講じられ、『日本書紀』でもそれらの書き付けられた木簡竹簡類がその後一顧だにされません。
3, 「帝紀」が書物とは...? ...? 何を以って?
4, ……(面倒な文法問題を割愛)

 『古事記』の8年後に完成する『日本書紀』。
 古事記が歴史書らしくないという理由から、かっちり編年体で歴史書らしく作られる『日本書紀』ですが、そうした編纂の趣旨とは裏腹に、こんにち、まっとうな歴史書として扱われることがめったにありません。
 とはいえ、西紀712年奉呈の『古事記』、そして8年後れて720年に完成する『日本書紀』、この二書を日本最初の歴史書とすることは定説になっています。
 ところが、その『日本書紀』の天武天皇の年代記に、「帝紀」「上古の諸事」というものを「記定」させたとあります。
 見慣れない「記定」という動詞。これにはさほど議論の余地もなく、「記」は記録⋅記述、「定」は校定の「定」だろうとされます。つまり、当時において諸説あった皇室の歴史や上代・往古の神話・伝説などを比較検討し、正しい伝承を撰定したと読むようです。校定したかどうかはさておき、「記定」は定めたという意味に取っていいでしょう。
 『日本書紀』のその記事に従えば、『古事記』『日本書紀』よりも30~40年ほど早い西紀680年代ころ、天武朝の飛鳥浄御原で日本最初の歴史書が成立していた、という話になりそうです。
 天武朝の帝紀伝説。
 そしてその「帝紀」などの実在性については今もって結論が出ていません。
 つまり、『古事記』『日本書紀』の二書を日本最初の歴史書とする現行の定説はその「帝紀」などに関する問題を保留した上での定説なのです。
 ところで、天武朝の帝紀伝説は『日本書紀』に端を発するのではなく、8年ほど先行する『古事記』の序文が初出だとされます。日本最初の歴史書とされている二書がうち揃って取上げている記事なのです。
 ただし『古事記』序文での呼び名は「帝紀及び本辞」あるいは「帝紀・旧辞」となっています。「本辞」⋅「旧辞」、そして日本紀では「上古諸事」と呼び替えられていることから、もし仮にそれらが書物だったとしても、すくなくとも「旧辞」あるいは「上古諸事」のほうは書名ではなさそうです。なかでも日本紀に出てくる「上古諸事」という語句は見るからに書名のようではありません。
 しかし、片一方が書名ではないとすると、併称されるもう一方だけが書名では不格好になるため、おそれおおくも天皇のご下命を受けた博士には死んでも書けないでしょう。すると「帝紀」のほうも、一見書名のようですが、やはり書名ではありません。実際『古事記』序文でも、初めは「本辞」あるいは「旧辞」と並んで出てきますが、最後は省略されて「旧辞」だけになっています。
 それにしても、そもそも書名とは何でしょうか。このころの古い書物のうち、著者自身が書名を付けているといえば西紀900年代前半の紀貫之作『土佐日記』くらいで、その他はほぼ後世の人が勝手に書名を付けています。『古事記』『日本書紀』の二書にしても、現在呼ばれるその書名は後付けです。
 さて、『古事記』序文のなかで「帝紀・旧辞」を追跡してみましょう。亡き天武天皇が「諸家」の「帝紀・本辞」に嘘が上塗りされるようになってきたと誰かから聞かされ、それでは今のうちに「帝紀」を記録し「旧辞」を定めて後の世代に伝えねば、と発意したとその序文は物語ります。
 読み解くと、『古事記』序文に出てくる「帝紀・旧辞」とは容易に虚偽が付け足されるような状態のものであり、これから記録され定められるようなものです。つまり亡き天武帝ご発意より前の「帝紀・本辞」あるいは「帝紀・旧辞」は明らかにまだ録定された文書になっていません。文書でなければ口承、話し言葉による伝承に決まっています。
 その前提事項を『日本書紀』天武天皇年代記で確認すると、亡き天武帝のもとで記定されたという事後報告があるだけで、「帝紀」「上古諸事」の記定に至る理由⋅経緯はありません。言い換えれば、記定に先立つ前提事項の段階では『古事記』『日本書紀』二書のあいだに食い違いは無いと言えます。
 問題は次です。亡き天武帝ご発意の前にはまだ文書化されていなかった「帝紀・旧辞」という口承、『日本書紀』はそれが天武天皇の御代に記定(文書化)されたとしています。
 天武朝の帝紀伝説。
 では『古事記』序文のほうはどうでしょうか。しかしどうしたわけか、『古事記』序文は亡き天武帝がご希望になった「帝紀・旧辞」のその後については口をつぐんでしまいます。
 『古事記』序文では急に話が飛んでしまい、稗田阿礼という聡明な舎人の話題に転じてしまうのです。そして、亡き天武帝がその阿礼に「帝皇日継(ていこうひつぎ)・先代旧辞」というものの習得暗記をお命じになられたという、わけのわからない唐突な経過報告を書いています。
 研究者によってはその「帝皇日継・先代旧辞」と前出の「帝紀・旧辞」とを同義としますが、その臆断に関してはいまだ筋の通った論証を見たためしがありません。
 さて、天武朝の帝紀伝説、その「帝紀」という語句は述べてきたように『古事記』『日本書紀』二書が成立したころはまだ書名ではなく、また意外にいまだかつて漢文明の漢語でもありません。日本古代律令期以前には確認されない造語、和製漢語です。
 西紀1300年代前半、太平記の時代、北畠親房が日本通史を書き、それはこんにち『神皇正統記』という書名で知られます。「天皇」という呼称が定着すると、天皇向きには『神皇正統記』のように「皇」の字が常用となり、天皇家の歴史ならば「皇紀」か「皇統記」あたりが適切となってきました。
 また、西紀600年代初期、蘇我氏体制期の聖徳太子に「日出づる処の天子」という書簡伝説があり、皇室の歴史には「天子紀」という表現も可能でしょう。
 実際、転々と王朝が入れ替わる漢文明に対して、やがて長い皇統を誇る日本は中国風の「皇帝」では不足とし、その上に天孫の「天」を付け足し、すでに「天帝」のほうは中国で天上神の呼び名だったため、「天皇」のほうを用いるようになります。
 「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり ──小野老」
 元明女帝の和銅三年、西紀710年、都が奈良平城京に遷ります。いわゆる奈良時代。平城京は大唐帝国の大都長安を模したと言われています。
 漢文明では統一国家の隋帝国が倒れたあと、入れ代わって西紀618年に大唐帝国が興りました。
 朝鮮半島百済国の仲介で大陸情勢に通じていた大和国家は相次ぐ大陸統一国家の樹立に影響され、しだいに国家一統意識を高めたとされます。
 百済国が660年に滅亡。大和王権の中大兄皇子が半島の白村江へ大挙派兵、唐⋅新羅連合軍に敗北。弟の天武天皇のころから大陸漢文明の大統一国家に倣った日本律令期が始まりました。
 皇位は妻の持統天皇に継がれ、この天智・天武系王統の至上命題は天智・天武両帝の血統をつなぐことだったといわれます。そして持統女帝の妹、元明天皇。
 西紀712年・720年、奈良時代初頭に成立した歴史書二書に出てくる「帝紀」。まだ漢文明の上を行こうとする気持ちは無かったのか、中国皇帝、皇帝から「帝」の一字を借りたようです。
 それにしても、なにしろ書物を納める書名という観念の容れ物さえ用意することが億劫だった怠惰な古代、よっぽどの必要がなければ天皇の漢風の称という観念に頭を使おうとはしなかったでしょう。
 なぜ通じやすい「倭王紀」でも「大和王紀」でもなくわざわざ造語の「帝紀」だったのでしょうか。誰が頭を使ったのでしょうか。
 もしも『古事記』の編著者が「帝紀」という語句の生みの親で、『日本書紀』の記事がそれを引用したものであれば、『日本書紀』天武朝帝紀伝説は『古事記』にまとわりつく後世偽作説を完全に払拭する重大な資料のはずです。

Apr 09, 2017 - サイト管理人




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