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帝紀と旧辞

このページの構成

【概要】

成立: 712年
作者: 太安万侶
初出: 『古事記』序文
内容: 『古事記』本文参照
備考: 妄説。

【解説】

  【 帝紀と旧辞 】

 「帝紀」「旧辞」は『古事記』以前に存在したこの国の歴史書、あるいは歴史書のような記録文書だとされています。
 その成立年は不明。文字(漢字)の渡来が西紀400年頃とされるため、その頃から600年代後半までの時期に書かれ始めたことになるのでしょうか。
 『古事記』序文が「帝紀」「旧辞」という名の初出であり、その初出はまた「帝紀」「旧辞」を古い歴史書とする論拠ともなっています。
 つまり『古事記』序文を見れば「帝紀」「旧辞」のことがわかるようです。
  『古事記』序 (sample)
「臣安万侶言。(中略)
於是天皇詔之、朕聞、諸家之所賷帝紀及本辞、既違正実、多加虚偽。当今之時、不改其失、未経幾年、其旨欲滅。斯乃、邦家之経緯、王化之鴻基焉。故惟、撰録帝紀、討覈旧辞、削偽定実、欲流後葉。時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是廿八。為人聡明、度目誦口、払耳勒心。即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。然、運移世異、未行其事矣。(中略)
於焉、惜旧辞之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安万侶、撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞以献上者、謹隨詔旨、子細採摭。(中略)
和銅五年正月廿八日 正五位上勲五等太朝臣安万侶 ──『古事記』序、岩波文庫、倉野憲司校注 (旧字体を新字体に更める)」
  『古事記』序 ──大意(上の縁起部分、他)
「天武天皇の御代に帝紀・旧辞の荒廃をご憂慮あそばされ、すぐにも正しい古伝承を撰進させようとお考えなされ給い、のちの『古事記』を稗田阿礼という者に暗記させたものの、そこまでで停滞した。今、和銅四年九月、元明女帝からこの臣太安万侶がそれの筆録を仰せつかりましたので、和銅五年正月、謹んで献上いたします。なお一言すれば、それを文字で書くことは難事でした」。
  『古事記』序 ──語句解釈
 それでは『古事記』序文の中で「帝紀」「旧辞」を追跡してみましょう。

古事記6

 最後のほうに、「(元明天皇が)臣安万侶に詔して、稗田阿礼の誦(よ)む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむといへれば、謹みて詔旨のまにまに、子細に採り摭(ひろ)ひぬ。」とあります。
 この部分は史上有名な『古事記』成立由来です。『古事記』は元明女帝の「詔」により、太安万侶が「稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して」完成したとされています。文中の「撰録」は「文章で記録する」の意、それまで書かれず語られていただけの言葉を文書化すること。
 ちょっと元明女帝のお気持ちや諸般の事情に配慮したフシも窺えますが、『古事記』はほぼ「稗田阿礼の誦む所」そのものだったようです。
 さて、その稗田阿礼が語り紡いだところの「勅語の旧辞」については前段に説明があります。
 「(およそ三十年前に天武天皇が)阿礼に勅語して、帝皇の日継(ひつぎ)及び先代の旧辞を誦(よ)み習はしめたまひき」という暗記モノが「勅語の旧辞」であり、つまりは三十年後にほぼ『古事記』として結実したモノです。「勅語」に注目すると、元明天皇時代の段に「勅語の旧辞」と見えている「勅語」は天武天皇のご指示、すなわち三十年前の勅語。
 ここまでの経緯を整理すると、『古事記』完成の三十年前、天武帝のご指示によって稗田阿礼に「帝皇日継および先代旧辞」を「誦習」させるという仕込みがあり、それは三十年後に元明朝で『古事記』となっています。
 さて、「帝皇日継および先代旧辞」を稗田阿礼に「誦習」させた理由について、同じ段の前文で説明があります。それは天武天皇のご内心のお気持ちを述べる全文で、ちょっと長いですが、訓み下しも付けて今一度引いてみます。
於是天皇詔之、朕聞、諸家之所賷帝紀及本辞、既違正実、多加虚偽。当今之時、不改其失、未経幾年、其旨欲滅。斯乃、邦家之経緯、王化之鴻基焉。故惟、撰録帝紀、討覈旧辞、削偽定実、欲流後葉。(略)、即、
(天武天皇の時代) 「ここに天皇詔(の)りたまひしく、『朕(チン)聞く、“諸家の賷(も)てる所の帝紀及び本辞、すでに正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。今の時に当りて、その失を改めざれば、未だ幾年も経ずして、その旨(むね)滅びむ。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基(こうき)ならむ”と。故に惟(おも)ふ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(たうかく)して、偽を削り実を定めて、後の葉(よ)に流(つた)へむ』と。 (略)すなはち、」
 ...すなはち、聡明な稗田阿礼に「帝皇日継および先代旧辞」を「誦習」させたといいます。
 天武天皇は周囲の者からの奏上により、「諸家」の「帝紀及び本辞」に虚偽付け足しが目立つようになってきたと聞し召し(きこしめし)、「帝紀を撰録し、旧辞を討覈(たうかく)」ということを発願した、と述べられています。
 「撰録」は既に語釈した「撰録」と同じ、語り言葉を文書化すること。後世には「勅撰」と用いられ、選ぶ(択ぶ)という意味も含むことになる「撰」ですが、『古事記』序文の「撰録」は絶対に選びません、歴史問題は微妙ですから一介の私人に選ばせてしまうと大変なことになります。「討覈(たうかく)」の「討」は検討の討、「覈(かく)」は埋もれた中から取り出す意、前文で「帝紀及び本辞」の「正実」が虚偽の中に埋もれていると述べられています。
 「邦家の経緯、王化の鴻基(こうき)」はこの国の歴史・王政の大いなる基礎。「経緯」は織物や織機のタテ糸とヨコ糸、よく漢籍で歴史にたとえる(歴史の時間・空間的ひろがり)、「鴻(こう)」は漢籍古典の『淮南子』を『淮南鴻烈』とも言い、このころの註釈で「鴻は大なり」とする、流行最先端の用語か、のちに「鴻基」は大事業に釣り合う大きな基礎・土台の意で用いられる。

古事記8

 さて「帝紀と旧辞」、最初は「帝紀および本辞」という呼称で提示されながら、次の言及ではさっそく「帝紀を撰録し、旧辞を討覈(たうかく)して」と、「本辞」のほうがどこかへ飛んで行っています。「本辞」の「本」は「旧辞」の基本、支流に対する本流。次の「旧辞」は「本辞」に対して支流。「旧辞」の「辞」は漢籍文化で言えば詩のように韻を踏んだ散文、この国ではおそらく謡うように語られる言葉。
 さらに天武朝の段の最後になって、「帝皇日継および先代旧辞」と、今度は「帝紀」のほうが飛びます。「帝皇」は神代を含む皇統、「日継」は太陽神(アマテラス)の神権の継承、「帝皇日継」は帝紀よりも『古事記』の内容に近づいた表現。
 ここまで、『古事記』の成立事情を整理すると、天武天皇の御代に「帝紀と旧辞」の「撰録」を思し召し(おぼしめし)て、稗田阿礼に「帝皇日継及び先代旧辞」を「誦習」させ、そしておよそ30年後、元明天皇の御代に、亡き天武帝のご遺志に共感なされ給い、その忘れ形見と言える「稗田阿礼の誦(よ)む所の勅語の旧辞」を太安万侶に「撰録」させた、それが『古事記』だとしています。
 さて、「帝紀と旧辞」に注目すると、もとよりそれは書物の名称に他なりません。ただし、『古事記』序文の筆法では「帝紀」「旧辞」と書物であるかのように表記しますが、しかし劇中人物の天武天皇がそれを「撰録」したいと思し召していますから、現実には書物ではありませんでした。おそらく倭国皇族及び諸氏族に「やまとことば」で口伝されていた昔話のことでしょう、いま『古事記』を見るとおりです。
 『古事記』序文は流麗な漢文で書かれているため、当時のこの国の事情に根差す物事も漢籍文化の言葉に置き換えて表現します。ですから『古事記』序文の「帝紀」「旧辞」も、「漢籍文化で言えば‘帝紀’や‘旧辞’と言うべきもの」という意味にすぎません。早い話、「物のたとえ」です。
 劇中人物の天武天皇がそれを「撰録」しようとして、ひとまづ稗田阿礼に暗記させていることからも、決して「帝紀と旧辞」は書物ではありません。もし仮にそれが書物であれば、天武天皇はせっかく文書として天皇家(及び諸家)に伝わっているそれをわざわざ稗田阿礼の暗記という心もとない次元に戻してから再び「撰録」なさろうとしていることになります。...ご乱心ですか?
 そんなことより、別の観点で『古事記』序文の天武天皇については不思議と言うしかありません。彼は「帝紀を撰録し、旧辞を討覈(たうかく)して」と決意しますから、では筆録する書記官を使うのかと予想させますが、しかし平然と暗記名人の稗田阿礼に「誦習」させています。この論理矛盾には何としても説明が必要ながら、『古事記』序文には一言もありません。
 そうした論理矛盾が『古事記』序文を難読文にしてしまい、「帝紀と旧辞」を古い書物とするがごとき誤解も招いてしまうのでしょう。

Oct 19, 2016 - サイト管理人




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