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『 五 蠹 篇 』

このページの構成

【概要】

成立: 前漢前期(たぶん)
作者: 未詳(伝韓非)
所収: 『韓非子』
何?: 大昔の政治論文
備考: 儒家思想に対する論駁を試みるこの篇の目的はあまりに明確、『史記』に言う韓王への献策とは何の話?
 おまけに戦国末期の韓の国の公子ならば書くはずもない記述が散見される。
 よって、...あとは【解題】本文参照。

【解題】

秦始皇帝1

 焚書坑儒 ─ Cultural Genocide
 紀元前、古代中国で文化を破壊する二つの暴虐が行われます。
 秦帝国の焚書と坑儒。この暴挙により秦始皇帝は末の世まで学者に恨みを買い、特に直後の前漢時代の学者は彼を魔王のごとく決めつけて書き立てました。

秦始皇帝陵4

 しかし怨恨抜きで公平に評価すると、むしろ始皇帝は非常に学者を愛した君主だったようです。その証拠に彼の愛情に付け込もうとする道家方士が相次ぎ、なかでも方士徐福の酷いやり口は今日にまで伝わります。
 儒学者を坑め(あなうめ)にした坑儒事件も、可愛さ余って憎さ百倍、子飼いの儒学者に裏切られたことが発端だったそうです。
 また、貴重な古代研究資料をことごとく灰にしたせいでつとに悪評高い焚書は『史記』によれば始皇帝の催した一日の大酒宴が発端ですが、その宴席にもたくさんの学者が招かれていました。
 学者といえど飯を食う生活者ですから、世渡り上手に絶対君主のご機嫌を取ります。しかし中には霞を食っているような無頼派の孤高学者もいるものです。秦帝国統一前でいう斉の国の淳于越という人は学者の矜持もなくお追従一色になっている周りのバカどもの作り笑顔にしだいに我慢ならなくなり、酒の勢いもあったのか、始皇帝に直言しました。
 皇帝陛下にはここにおる周青臣らがごとき軽薄輩のたわごとにお耳をお貸しなさいますな。こやつらの下らぬへつらいは陛下に要らぬ自惚れを抱かせるだけ、巧言令色に仁は鮮しでございます。今や陛下は史上初めて海内全土をお治めになり、かつてのどの君王にも秀でることは申し上げるまでもありませんが、さりとてお一人のお力には限りがあるもの、この先あらゆる不慮の事態をお一人で斬り伏せられるわけではございません。周は亡びたとはいえ千年ものあいだ王室を保ちました、そのわけは王の子弟そして功臣を各地に封じ、王室の守りとなる藩屏としたからです。良き知恵を見ていながら使わぬ手はありません。ただいま陛下のご子弟はみな平民でございますが、一朝ことある時、誰が陛下をお救いできますでしょうか。
 淳于越のその意見を始皇帝は宰相(丞相)の李斯に渡して処理させます。
 この宰相李斯も荀子の門に学んだという学者で、学者から秦帝国の宰相に取り立てられました。
 荀子は世に荀卿とも尊称された偉大な学者といわれ、この宰相李斯と、そして『韓非子』の韓非という非常に有名な高弟ふたりを輩出しています。ちょうど李斯と韓非は同じ時期に荀子のもとで机を並べた学友で、李斯はとても韓非の才能には敵わないと舌を巻いたそうです。
 荀子の門から出世の糸口を求めて秦へ行き、まだ少年王だった秦王政(のち始皇帝)に未来を託して実務派になった李斯、実務にかけては師の荀卿をしのぎ、青は藍より出でて藍より青し。
 やり手の実務者だった李斯は思想的には同期の桜である韓非に大きく影響されていたといいます。
 韓非の思想といえば『韓非子』、酷薄非情な徹底した法治主義です。
 『韓非子』に「五蠹篇」があります。時代が変われば統治方法も違って当然と説く内容です。
 古い周王朝の封建制統治に倣えという淳于越のその意見を宰相李斯は検討する気にもならず、それよりも実務派の彼は酒宴での学者同士のくだらない衝突を重く受け止めました。
 たかが口先だけで何の実力もない学者どもとはいえ、その口先で世を騒がすことはあります。騒乱の先導は危険な分子です。上意下達の絶対君主制統治下、下が上を非難することは許されません。そしてまた、そんなくだらない決裁事が今後も始皇帝から自分のところに回されてくるようでは、せっかく天下の宰相になった自分の楽しい人生の時間が大きく削られてしまいます、冗談ではありません。
 宰相李斯は酒宴から持ち込まれた意見の実際面での本質を見極め、抜本的な解決を画策します。
 それが焚書。愚民政策でした。

秦始皇帝陵5

 さて『史記』によれば、秦始皇帝はまだ秦王の政だった弱冠のころ、一人の学者を秦の国に招きたいと思い、それだけのために他国を武力攻撃したこともあったそうです。
 常軌を逸するほど心奪われたその学者が韓非でした。
 韓非は秦の隣国三晋のうちの韓の国の王族出身、公子だったとされますが、いくら例の『韓非子』を書いて韓王に奉じても聞かれず、不遇をかこっていたといいます。
 その韓非の著作を評価して写し取り、秦王政のもとに持ち込んだ者がいました。
 政はその中から「孤憤」と「五蠹」の巻を読み、感激します。そしてまだ官職が下っ端だった物識りのお側仕え(そばづかえ)李斯に語りました。
 「すごい学者がいたんだな。こんな人と語り合えたら死んでもいいくらいだ」
 李斯は変な顔をしました。
 「それを書いた者は今の世のすぐ隣国の韓非でございますが...?」
 西方の強大国秦はたちまち少年王の号令によって隣の弱国韓を厳しく猛攻撃し、韓非を使者として立てるようしつこく要求します。
 こうして秦王政に迎え入れられた韓非はしかし二度と生きているうちに祖国へ帰されることがありませんでした。ことごとに韓非の考えを聞く秦王政、韓非の意見ならば一つとして例外なく用いられ、そして李斯と姚賈が妬んで讒言します。
 陛下、彼はしょせん韓の国の王族、結局は韓のためを考えます。しかしここまで長く秦の国内に留めてから彼を国へ帰すならば、むざむざ我が国の機密をそっくり手土産に持たせるようなもの、とくとご深慮を。
 そこで政はともかくも韓非を獄につなぎますが、なお秦に帰服できないものか再三にわたって尋問させていました。その間に獄房へ士の情けの自決用の毒薬を届ける李斯。
 「いや、朕さえ用心を怠らなければ。それに、もうすぐ韓なんか朕のものではないか」
 はっと政が自身の過ちに気付いて、ようやく赦免の使いを向かわせたとき、牢獄の闇の中、韓非はとっくに冷たい亡骸でした。

秦始皇帝陵6

 さて、『史記』では若き日の秦始皇帝を感激させる『韓非子』の「孤憤」「五蠹」篇。始皇帝についてはさておき、『史記』の著者を感心させた名作だったことは間違いなさそうです。
 「五蠹篇」の「蠹」は木食い虫。樹(国家)には五種類の木食い虫(亡国の輩)が寄生しているとたとえます。
 この篇の思想的主張はすでに述べたように時代が変われば統治法も違って当然という考えです。すこし具体的に言えば、いつまでもばかの一つ覚えで太古の聖王の仁政を振りかざす固陋儒学者に対する法家思想からの反論です。
 『史記』が従った前漢時代前半の通説では、論文集『韓非子』の著作者は韓非、韓非は法家政治思想の代表的人物、と言われていたのでしょう。そのため「五蠹」も『韓非子』に所収されてきたようです。
 その法家思想は戦国末期の人物の創始ではなく、秦始皇帝の統一で終わるより百数十年も前、秦の国に渡った商鞅という人物から始まるとされています。
 そもそも法学思想は他でもない「五蠹」のなかで目の敵とする儒学思想から分家したそうです。孔子門の「後生おそるべし」と言われた若い新参弟子グループ、その中で一、二を競った子夏が老齢になって魏の国に招かれ、魯国の孔子の教えを魏国に移植します。魯国残留の孔子一門が「子夏の奴は魏に行って箸の上げ下ろしみたいな細かいことばかりくどくど教えているそうだ」と揶揄しました。その細かいことの教えが社会活動を細かく規定する法学になります。
 すこし遅れて衛の国の呉起が魏国に仕えて活躍しました。呉起は用兵と政治手腕に秀でていたといわれ、子夏流の細かいくどくどを領地経営や国家運営に活かしたようです。彼は魏国で疑われて南方の雄国楚へ奔り、当時から一番後れた封建制の国だった楚を魏国仕込みの細かい決まりごとで治めますが、反対勢力の巻き返しに遭い改革失敗、ハリネズミのように矢を受けて死にました。
 そして衛の国の公子だったという商鞅がしばらく魏国に遊び、そののち西方の秦の国へ渡りました。商鞅は先進文化国である魏国仕込みの法学思想でしっかり成果を上げ、法家思想の開祖として『韓非子』世界で大賢人扱いですが、やはり最期は無残に手足を引きちぎられて死にました。
 しかし呉起の死で改革が後戻りした楚の国とは反対に、法治の成功をまざまざと目にした秦の国は商鞅の死後も厳しい法治主義の国でありつづけ、そして最も紀律のとれていたこの秦がついに群雄戦国の世を制します。

秦始皇帝2

 さて秦帝国が始皇帝の死後たちまち土崩瓦解を起こし、わづか20年ほどの期間で中国史上初の統一国家の使命を終えると、直後の前漢時代の儒学者たちは何故あの強秦の帝国がかくもあっけなく消滅したかについて研究し、要するに仁徳が欠けていたためだと結論しました。
 それに対し、秦帝国の終焉ではなく誕生に目を向け、戦国七雄の争いに勝利した秦国の強さについて関心を持った人たちもいたようです。政治論文集『韓非子』はそうした強秦研究という主題のもとに成立したのかもしれません。これは儒学者の理想論に対する現実主義からの反論とも言えます。
 『史記』では『韓非子』の中の「孤憤」「五蠹」「説難」などの諸篇を白眉としますが、秦国の強さの理由の一つは厳しい法治主義だったようですから、儒家の大時代的な理想主義に対する法家現実主義の優位性を論述した「五蠹」篇はたしかに『韓非子』における主要な一篇なのでしょう。
 論理学の発達した現代から見ると、救いようもないほど随所で論理が間違っている「五蠹」篇、しかし強秦の戦国制覇という現実を後ろ盾とする論者の自信に満ちた著述は今もなお妙に魅力的です。

Apr 16, 2017 - サイト管理人
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