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『楽毅論』

このページの構成

【概要】

臨書: 744年
御製: 光明皇后 (藤三娘)
原文: 夏侯玄
備考: 三国時代の夏侯玄『楽毅論』を王羲之が清書し、その孫写しを光明皇后が臨書したもの。国宝。
 楽毅とは戦国時代の秀才⋅名将。燕昭王に仕える。

【解題】

 【 楽毅論 】

  ― 光明皇后「楽毅論」 ―

楽毅論6

 正倉院に光明皇后の「楽毅論」という書道作品が保管されています。国宝です。
 王羲之「楽毅論」を臨書したものと、よく紹介されます。が、王羲之をお手本に、とは説明が雑すぎます。
 中国の皇帝でさえホンモノにめぐり会えなかった王羲之です。唐の皇帝が模本を手に入れ、それをさらに書写させたといいますから、その孫複製の一つくらいを遣唐使が譲り受けてきたのかもしれません。
 にしても、皇帝すらとんだまがい物を掴まされるのですから、ニセモノ大国の面目躍如ですが、そんな二束三文の贋物をさらに写し取らせ、王羲之の令名で箔をつけて、衛星諸国への立派な引出物にしてしまうとは、大唐帝国もなかなか油断なりません。
 「唐(から)の物は、薬のほかは、みな無くとも事欠くまじ。 ――『徒然草』第百二十段」
 上田秋成『血かたびら』の挿話も参照。
 もちろんお手本がどうであれ、光明皇后の真筆ですから貴重な正倉院宝物になっています。
  ― 夏侯玄『楽毅論』 ―
 王羲之「楽毅論」も王羲之の作文ではなく、もうすこし古い人の文章を王羲之が書作品にしたそうです。
 そもそも論じられている楽毅将軍とは、中国戦国時代後半、西紀前3世紀初めころの燕の国の客卿であり、燕斉戦争で大活躍します。百年後、劉邦が天下を取ると、その楽毅の子孫をわざわざ探し出して取り立てています。ほとんど神格化された名将と言えるでしょう。
 ところが楽毅は完全勝利を目前にして敵将田単の計略により失脚し、亡命を余儀なくされます。残された燕国の軍も田単に完敗しています。そのため、劉邦の興した漢代も末期になると、楽毅の評価を疑問視する見方が強まり、斉将田単より劣ると見なされてしまったようです。
 それに対して、三国志の物語で「孔明、人か魔か」とその超人的な賢才ぶりを恐れられる諸葛亮孔明が再び楽毅を見直し、特に燕恵王へ送ったといわれる楽毅の有名な手紙を高く評価します。
 他方、その三国時代、孔明陣営と敵対した魏側の夏侯玄も同様に楽毅擁護の論文を書きます。
 そうした機運により、楽毅の名声は回復します。
 にしても、孔明陣営の首領は劉備玄徳、漢高祖劉邦の末裔です。その蜀漢陣営にしてみれば、高祖劉邦が敬愛した楽毅とは、劉備玄徳の戦いが漢王朝復興のためであることを世に印象付けるうえで格好の宣伝材料だったかもしれません。
 一方、曹操の魏側にしても、そうした敵軍師諸葛亮の抜け目ないイメージ戦略をうっかり放っておくと、王位簒奪の汚名をこうむるはめになりますから、やはり劉邦の好きだった名将楽毅を何かしら一言持ち上げておく必要があったことでしょう。
 それが王羲之の書となる夏侯玄『楽毅論』です。
  ― 斉人伐燕 ―
 西紀前310年代、斉国北隣の燕の国が動乱します。
 燕王子噲が宰相子之に禅譲。廃太子と旧重臣の反乱。
 斉宣王はその機に乗じようとしますが、それとなく孟子の見解を確かめます。梁恵王の崩御後、孟子は魏国を去り、前310年代は斉国に滞在していました。
 沈同、その私を以て問ひ...、燕伐つべきか。孟子曰く、「可」。
 「斉人伐燕 ――『孟子』公孫丑章句下第8章、梁恵王章句下第10、11章、公孫丑章句下第9章」
 西紀前314年、斉宣王は楽々とわづか50日で乱燕を制圧し、万乗の国に万乗の国を加えて最大諸侯となりますが、征戦後の征服地支配を誤り、侵略目的の派兵だった印象を世に与え、天下全諸侯の反感を買います。
 苦もなく燕軍を破ったというのに、その政治リーダーたちを殺し、その宗教を取り上げ、燕国伝来の宝物を持ち去ったそうです。
 せっかく燕国の動乱は斉の国力を倍し、斉の国が天下の覇権に返り咲く幸先となるはずだったのに、斉宣王は勝利の美酒を呑みすぎてしまい、かえって斉王横暴のそしりをこうむり、燕国救援のための天下の兵総動員の機運を招きます。
 勝つと思うな、思えば負けよ ――昭和の戯れ言。
 「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。 ――『徒然草』第百十段」
 宣王は善後策を孟子に諮りますが、「七十里四方の小国で天下を経営した王ならば聞いたこともありますが、いまだかつて千里四方の大国に君臨しながら人を恐れる王様など聞いたことがありませんぞ」とからかわれ、燕国から手を引くよう勧められます。
 天下討斉の不穏な動向を横目に睨みながら、それでも針の筵に座る心地で燕国支配を2年続けた後、燕国が勝手に新王を立て、独立運動を起こすと、斉宣王は潮時と見ておとなしく兵を引き揚げさせます。
 燕の子噲の太子⋅平が新王として即位したのでした。燕昭王です。
 昭王は国の雪辱のため斉国への報復を生涯の誓いとし、破燕をまとめて王位に即くと、死馬の骨を買うように先づ隗より始めて天下諸賢を招聘し、民への奉仕にも労をいとわず、臥薪嘗胆の月日28年に及びます。

Jul 22, 2016 - サイト管理人

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