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桂陵の戦い

このページの構成

【概要】

年代: 紀元前4世紀中期
戦場: 古代中国中原桂陵
参戦国: 魏・斉
対決君主: 梁恵王vs斉威王
有名武将: 龐涓vs田忌・孫臏
備考: 梁恵王の領土拡張行動に斉威王が横槍を入れ、桂陵の地で両国の軍が対決。
 軍師孫臏が決行した作戦はのちに「魏を攻めて趙を救う」という戦法として語られる。

【解説】

(この記事は ▶ 「梁恵王」のページ からの続きです)

 【 梁恵王伝 2 】
 ー 「桂陵の戦い」及び「馬陵の戦い」 ー

 ( 29. 08 ⁄ 12 追記 )

 中国戦国時代を彩る合戦活劇、桂陵・馬陵の戦い。魏の国の梁恵王と斉の国の威王との戦争でした。
 また、『史記』孫子列伝によれば、孫臏と龐涓、名将同士の因縁対決でもあったといいます。
 ところが後世になって発見される「孫臏兵法書」により、その『史記』孫子列伝の劇的な筋書きに疑義が生じました。
 桂陵の戦いの十数年後とされてきた馬陵の戦いが「孫臏兵法書」にはなかったのです。2つの合戦にわたって展開される『史記』孫子列伝の対決が初めの1戦だけで完結していたのでした。
 しかし、古くから知られている『孟子』の関連記述から推測すると、新発見の「孫臏兵法書」も史料として充分ではありません。
 みごと仇敵の龐涓を討ち取った孫臏、『史記』孫子列伝では、参戦していた魏の国の太子もその際に討ち取ってしまいます。その太子については長子という表現で『孟子』にも裏付けがあるのです。ところが孫臏のお手柄を書きもらすはずがない「孫臏兵法書」には見られませんでした。
 さて、これら内容の食い違う3書の出現時期を推定してみると、「孫臏兵法書」と『孟子』は前漢時代前期、あるいはそれ以前、『史記』孫子列伝は後れて前漢中期に成立しました。
 そこで「孫臏兵法書」と『孟子』、この2書の記述を比較検討すると、史実とまでは言えませんが、西紀前300年代中期に起こった魏国対斉国の決戦「桂陵・馬陵の戦い」が西紀前100年代の漢代初期の世でどう認識されていたかについては判明します。
 そしてその2書の記述だけであれば互いに矛盾なく解釈することが可能なようです。
 『孟子』いわく、魏国の梁恵王と斉国との間には少なくとも二度の合戦がありました。また、長子を失ったという戦いは再戦のほうだったようです。
 対して「孫臏兵法書」には桂陵の戦いただ一戦しか出てきませんが、この書は孫臏の手柄話を伝えるのですから、孫臏が参戦していなければ、魏国の梁恵王と斉国との間に再戦が起こっても関知しません。
 後れて前漢中期に執筆された『史記』孫子列伝が熱く描き出す、桂陵・馬陵の二度の戦いにわたって繰り広げられる兵法家孫臏の華麗なる復讐劇。
 しかし要するに、戦国時代を彩るため、中国正史『史記』の作者がやらかしてしまったのでしょう。

Aug 12, 2017 - サイト管理人



 ( 以前の記事 )

 『史記』といえば列伝、「史記列伝」といえば策略と戦術。
 おそらく『史記』のうちでは孫子列伝が最も人気の高い記事でしょうが、なにしろ無類の兵法好きだったらしい司馬遷が男性機能と引き換えに書き上げたと言っていい男子畢生の一編です。
 孫臏の活躍を描いた部分はある程度まで『孫臏兵法書』を資料にしたと思われますが、司馬遷一流の作劇演出も見られます。
 題材は紀元前4世紀の「桂陵の戦い」という史実の戦役です。『孫臏兵法書』ではそれを軍師孫臏の手柄話として描き、さらに孫子列伝ではその名将同士の対決を盛り上げるため、一つの逸話を仕込みました。
 孫子列伝によれば、孫臏はかつて龐涓と学友だったとされます。
 龐涓は魏の国に出仕し、梁恵王の将軍として出世すると、かつて共に学んだ孫臏の才能が頭から離れず、戦場で相まみえれば打ち負かされるに違いないと恐れます。
 そこで孫臏を巧みにおびき寄せ、罪を着せて、両足切断、額に罪人の入れ墨、二度と世に出られない姿にしてしまいます。
 孫臏はそのまま囚われていましたが、魏の国都大梁に生国「斉」からの使者が訪れたとき、それを利用して斉の国へ脱出しました。そして田忌将軍の推薦で名君威王に才能を買われます。
 孫子列伝はここまでお膳立てしてから「桂陵の戦い」での因縁の対決を語るのですが、『孫臏兵法書』が発掘されるに及び、孫子列伝の記述に不審な点が生じます。
 見つかった版の『孫臏兵法書』では「桂陵の戦い」の一戦だけで龐涓を捕えてしまっていますが、孫子列伝では十三年後に「馬陵の戦い」という再戦を設定し、そこで龐涓を討ち死にさせています。
 様々な可能性が考えられる食い違いですが、ともかく『孫臏兵法書』には無かった二度目の対決が孫子列伝に書かれているのです。
 第三の資料として『孟子』を参照すると、史実を覆う霧はますます濃くなります。
 『孟子』では、梁恵王の口を借りて「東敗於斉、長子死焉(読点=小林勝人氏、岩波文庫)」と書いています。
 「(天下最強の我が魏国は自分の代になるに及んで)東では斉に敗れて長男を死なせ...」という梁恵王の悔恨苦衷です。
 『孫臏兵法書』も孫子列伝も斉国側の孫臏に焦点を当てていますが、もう一方の魏国側の梁恵王に焦点を当てると、孫臏も龐涓も出てこなくなり、長子を戦死させたことが一番の注目点になっています。
 梁恵王の長子といえば魏の国の太子ですから、そんな大物を討ったとなると孫臏側にとっては大手柄であるはずなのに、そして孫子列伝も「馬陵の戦い」では魏国の太子⋅申を捕えたと書いているのに、『孫臏兵法書』には出てきません。
 つまり、『孟子』で梁恵王に語らせている敗戦と『孫臏兵法書』で龐涓を捕えたと称賛されている大勝利は別々の戦いなのでしょう。
 『孟子』のなかの「梁恵王篇」から遠く離れた篇に、一箇所だけ梁恵王について語る章があり、そこでは梁恵王は敗戦に報復しようとして近親を戦場に駆り出し、それをも死なせたとされています。
 孫子列伝によれば「馬陵の戦い」は桂陵の敗戦の十三年も後ですから、それを報復戦だと位置づける『孟子』の弁もかなり強引ですが、当時大梁の巷間ではそんな陰口がささやかれていたのでしょうか。
 孫子列伝の記述のとおり、意外に二度目の合戦「馬陵の戦い」はほんとにあったようです。
 ただしその二度目には、すでに桂陵で敵の手に落ちている龐涓は無論ですが、田忌⋅孫臏も参陣しなかったと考えられます。『孫臏兵法書』に書かれていないゆえんです。
 桂陵で活躍した田忌将軍について、嘘かまことか、一つの後日譚が伝えられています。やがて斉威王の不興を買うようになり、他国へ亡命してしまったのだとか。
 孫子列伝の語る「馬陵の戦い」そのものは事実あったものの、どうやらそれは痛快な復讐劇のクライマックスが演じられた舞台ではなかったようです。
 それにしても、「龐涓この樹の下に死す」と不気味に大書された樹の下で、龐涓が「これであの小わっぱに名を成さしめたわい」と負け惜しみを口走りながら自害し、ハリネズミのように無数の矢が刺さった姿で斃れるというラスト・シーンは、事実でないならそれはそれで歴史に残る傑作フィクションかもしれません。
 思いついた司馬遷も書かずにいられなかったのでしょう。

Mar 29, 2016 - サイト管理人




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