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『 梁 恵 王 』

このページの構成

【概略】

在位: 前369~前319
備考: 


「主要戦歴」

【評伝】

 【 梁恵王伝 1 】

 ( 29. 08 ⁄ 07 追記 )

 東洋思想の古典『孟子』、その首篇「梁恵王章句」に名を残す梁の恵王は戦国時代「魏」国の君主でした。
 中国戦国時代の梁は魏国の別称。魏国の王なのに梁恵王と称するのでわかりにくくなっていますが、この恵王のときに都を大梁に遷したとされることから、その名称には特に梁恵王のほうが好まれたようです。
 戦国時代の魏国はその前の春秋時代には「晋」国でした。
 春秋時代はいわゆる五覇の時代。周王朝の権威が衰え、代わって諸侯のなかの最も富国強兵に成功した者が中国世界の覇権を執りました。王道と覇道という統治思想はこれに因ります。
 五覇(5人の覇者)の顔ぶれには諸説あるものの、その筆頭は名宰相の管仲(管子)を右腕とした斉国の桓公。そして次が晋国の文公でした。以来、別の国にも覇者とされる名君が現れましたが、春秋時代の終わりまで晋の国は覇国の座にあり続けました。
 しかし、その晋国の内では大臣たちの権勢実力が強くなり過ぎ、ついに大臣たちが君主を廃し、それぞれが自身の領地の君主として独立し、大国の晋は3つの国に分裂します。その晋国の分裂が春秋時代の終わり、下剋上の戦国時代の始まりとされる事件です。
 晋国を割った3国のひとつが「魏」国で、残りは「趙」と「韓」でした。
 晋国の都があった中央地域を領した「魏」国。戦国時代の初頭から、文侯武侯の二代による富国強兵が実り、当時最大最強の先進国となります。それを承継した3代目が梁恵王です。
 思想書『孟子』を見ると、孟子はイの一番に魏国の梁恵王を訪ねています。西紀前321年、戦国初期から半世紀ものあいだ魏国に君臨した梁恵王の最晩年でした。
 ちなみに『史記』の孟軻列伝では先に斉宣王を訪ねたことになっていますが、『史記』の作者が当時雑然としていた『孟子』を読み間違えたにすぎません。
 また、『史記』の商君列伝では、梁恵王について詳しく書いていますが、これも当時の低俗な読み物を基にした虚像です。
 衛の国の公子だったとされる法家思想開祖の商鞅(商君)。魏国で出世を画し、宰相の公叔痤に仕え、恵王に推薦される機会を待ちます。
 老功臣の公叔痤が病に臥してその機会は訪れ、余命短い宰相は病床見舞いの梁恵王に賢才の商鞅を薦めました。しかし主君にはその気なし。
 「あれほどの才人を他国に渡してはなりませんぞ。もしお用いになられないのであれば、あの者は始末すべきです」
 商鞅は魏国から出奔、秦国で用いられ、革新の法家思想で秦国天下統一の礎を築きました。
 魏国は商鞅のために強国となった秦の侵掠を受けます。梁恵王は強秦に近い都を捨て、逃れ落ちて行くように遠い大梁へ遷都。
 その遷都の途上、梁恵王は肩を落として慨嘆します。
 「ああ、あのとき叔痤の話を聞いておれば、こうはならなかった」
 西紀前100年ころに成立する『史記』ではそうした梁恵王像が描かれました。『史記』のこの伝の原作は『戦国策』にある掌編小説。
 『戦国策』のほうの結びは「商鞅を用いた秦はいよいよ強くなり、用いなかった梁恵王はいよいよ領地を削られた」と大まかな物言いになっています。『史記』ではその原作に、梁恵王のときに魏国の都が大梁へ遷されたとされる逸話も絡め、筋書きを劇的にしました。
 しかし後世になって発見される「孫臏兵法書」によると、かの桂陵馬陵の戦いの時期にはもうすでに梁恵王の都は大梁でした。秦国に領地を奪われるよりずいぶん前です。遷都を梁恵王即位後すぐとする説すらあります。
 ところで、そもそも『孟子』の篇名になっている梁恵王という呼び名はいつごろからのものでしょうか。なかなか文芸的にひねった、シャレた表現なので、思いのほか新しいはずです。
 もちろん恵王という名称は諡号ですから、この諸侯の死後に付けられています。すると西紀前319年以降。そして恵王の上に「梁」。
 当の魏国の人たちは自国を「晋」と呼ぶこともあったようです。言うまでもなく春秋時代の覇国たる「晋」。魏の人はその晋の国の正統な後継を自認していました。一方、魏の人が自国を「梁」と呼んだ例は皆無。これは他称にほかなりません。
 『戦国策』や『史記』で述べられるとおり、後世から遠望すると、戦国初期に文侯武侯の二代の治世で最大最強国となった魏は梁恵王50年の治世の間に勢力が衰えます。
 『孟子』梁恵王章句上によると、東の斉国に桂陵馬陵の戦いで敗れ、秦には領土の西北部を大きく奪われ、さらに南からも楚国の侵攻を受けました。
 「魏」とは「大きい」の意です。文侯武侯の代ならば魏という国名もふさわしいものでしたが、恵王の代にはふさわしくない、梁恵王という名称にはそうした悪意あるニュアンスが含まれています。
 つまり梁恵王という文芸的な呼び方は戦国時代の趨勢が秦始皇帝の天下統一に決した後でなければ生じません。魏国にまだ巻き返しの見込みがあったうちは予断を許さなかったのですから。すると、この呼び名は秦帝国期以降、おそらく前漢初期の文学の所産なのでしょう。
 そこで、『孟子』という書の著作時期は前漢初期であると推定されます。
 東洋思想の古典『孟子』については、いちじるしい例を挙げると、『史記』の著者などが孟子当人の自著であるとしました。そうであれば戦国時代中期、西紀前300年代末の成立。
 現代の研究では孟子自作を否定し、より時代が下り、孟子の弟子かその後の孟子派の末流によって書かれたとする説が有力となっています。
 しかし梁恵王というシャレた呼び方と、前漢中期成立の『史記』がその名称を踏襲していることから推して、『孟子』は前漢初期に書かれた漢代文学以外の何物でもないでしょう。つまり『史記』の制作から百年とはさかのぼらない、西紀前100年代です。
 「梁恵王曰、晋国天下莫強焉、叟之所知也、及寡人之身... ──梁恵王章句上第五章冒頭」
 名文以外の何物でもありません。また他に、よく知られる「五十歩百歩」というシャレた慣用句も、この梁恵王との対話篇が出典です。
 孟子と梁恵王とを登場人物とする後世の文学作品だからこそ、凝った表現を楽しんでいるのです。

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Aug 07, 2017 - サイト管理人



 ( 以前の記事 )

 不朽の名著『史記』を完成させたほどですから、司馬遷という人はすごい学者だったのでしょうが、そのせいか、他の思想家に対しては優しくない気がします。
 孟子列伝も荘子列伝も、現在では理解できないような批判に満ちています。
 もっとも、そうした不幸な誤解は司馬遷個人の問題というより、司馬遷当時の資料の問題なのかもしれません。
 東洋思想の古典『孟子』は紀元後の後漢時代末にようやく編集・注解されたそうですが、裏返せば、それより300年前の司馬遷当時には偉大な学者も読み間違うほど未編集で読みづらかったようです。
 孟子列伝の致命的な間違いは孟子の遊歴順を誤読したことです。孟子列伝の遊歴順ならば、たしかに孟子はどの諸侯からも相手にされなかったという結論も導かれます。
 しっかり編集された現行の『孟子』では、孟子の遊歴順は最初に「魏」の国、次に「斉」の国と読めますが、そもそも現行の『孟子』によるなら、孟子の人生に遊歴という言葉を使うことが適切ではないようです。
 孟子は最初の「魏」国に足掛け3年、次の「斉」国には実に8年間も滞在しますが、『孟子』の記述によると、もともと二番目の「斉」国にはちょっとだけ立ち寄るつもりで、ここまで長く滞在するとは思いもよらなかった、といいます。
 遊説家の遊歴といえば、活躍の場を求め、諸国をさすらうのですが、孟子の場合は最初の「魏」国を去って以降、旗揚げする意欲がすっかり失われていました。
 裏返せば、最初の訪問先、「魏」国に対する孟子の並々ならぬ期待が推測できます。
 現行の『孟子』全7篇は首篇「梁恵王篇」から始まります。以上のとおり、孟子は人生を賭けるほどの意気込みで、その梁恵王を訪ねたのでした。
 『史記』商鞅列伝ではひどく矮小な道化君主のように描かれる梁恵王ですが、これも資料に難があり、孟子ほどの大思想家がそんな暗愚諸侯を頼るはずがありません。
 50年間も長期在位した「魏」の国の梁恵王は紀元前4世紀中期における最大の君主であり、『孫臏兵法書』や『荘子』では、ちゃんと大諸侯らしく描かれています。
 古い中国のことわざで「鋭いキリは袋を突き破る」というそうです。
 東洋思想の古典『孟子』は孟子列伝で散々に書かれてもめげず、唐・宋の時代に至って名著という評価が高まります。評価されるまで千年以上を要した計算です。
 その『孟子』の首篇に名前がとられた梁恵王という大諸侯も、いつか実像に照明が当てられないとも限りません。

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Mar 26, 2016 - サイト管理人




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