梁恵王

このページの構成

【概略】

在位: 前369~前319
備考: 


「主要戦歴」

【評伝】

 【 梁恵王伝 1 】

 不朽の名著『史記』を完成させたほどですから、司馬遷という人はすごい学者だったのでしょうが、そのせいか、他の思想家に対しては優しくない気がします。
 孟子列伝も荘子列伝も、現在では理解できないような批判に満ちています。
 もっとも、そうした不幸な誤解は司馬遷個人の問題というより、司馬遷当時の資料の問題なのかもしれません。
 東洋思想の古典『孟子』は紀元後の後漢時代末にようやく編集・注解されたそうですが、裏返せば、それより300年前の司馬遷当時には偉大な学者も読み間違うほど未編集で読みづらかったようです。
 孟子列伝の致命的な間違いは孟子の遊歴順を誤読したことです。孟子列伝の遊歴順ならば、たしかに孟子はどの諸侯からも相手にされなかったという結論も導かれます。
 しっかり編集された現行の『孟子』では、孟子の遊歴順は最初に「魏」の国、次に「斉」の国と読めますが、そもそも現行の『孟子』によるなら、孟子の人生に遊歴という言葉を使うことが適切ではないようです。
 孟子は最初の「魏」国に足掛け3年、次の「斉」国には実に8年間も滞在しますが、『孟子』の記述によると、もともと二番目の「斉」国にはちょっとだけ立ち寄るつもりで、ここまで長く滞在するとは思いもよらなかった、といいます。
 遊説家の遊歴といえば、活躍の場を求め、諸国をさすらうのですが、孟子の場合は最初の「魏」国を去って以降、旗揚げする意欲がすっかり失われていました。
 裏返せば、最初の訪問先、「魏」国に対する孟子の並々ならぬ期待が推測できます。
 現行の『孟子』全7篇は首篇「梁恵王篇」から始まります。以上のとおり、孟子は人生を賭けるほどの意気込みで、その梁恵王を訪ねたのでした。
 『史記』商鞅列伝ではひどく矮小な道化君主のように描かれる梁恵王ですが、これも資料に難があり、孟子ほどの大思想家がそんな暗愚諸侯を頼るはずがありません。
 50年間も長期在位した「魏」の国の梁恵王は紀元前4世紀中期における最大の君主であり、『孫臏兵法書』や『荘子』では、ちゃんと大諸侯らしく描かれています。
 古い中国のことわざで「鋭いキリは袋を突き破る」というそうです。
 東洋思想の古典『孟子』は孟子列伝で散々に書かれてもめげず、唐・宋の時代に至って名著という評価が高まります。評価されるまで千年以上を要した計算です。
 その『孟子』の首篇に名前がとられた梁恵王という大諸侯も、いつか実像に照明が当てられないとも限りません。

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Mar 26, 2016 - サイト管理人




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